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第1話 mask1

 ほう、と息をつけば白い霧が浮かんでは消えていく。冬が近い十一月末。今日は、花の金曜日と称して、多くの人が宴会をしているようだ。深夜近くにも関わらず、人の波と人いきれが凄まじい。  かくいう菊井太一(きくいたいち)も、先輩に誘われて飲んできた帰りだ。ほろ酔い気分で体が熱く、涼を求めて真っ赤になった手が首元へ回る。しかし、寸前で、ショーウインドウに映った自身の顔が視界に入った。透明なガラスに映るのは、三白眼に八の字を描く眉、豚のような鼻、分厚い唇が微妙におかしな配置でついた情けない顔。不細工を絵に描いたようなそれに、慌ててマフラーをきつく巻いた。赤の毛糸で作られた帽子とマフラーで顔のほとんどを隠した華奢な体躯の青年が、こちらを見返している。知らず力の入った拳を意識して開いて、逃げるように下を向いた。  そうした先で、太一は初めて近くに人が座り込んでいることに気が付いた。倒れ込むように(うずくま)り、よく目を凝らせば肩が震えている。ショーウインドウの向こう側にあるライトが、彼の真っ赤に染まった耳を照らし出していた。  どこ具合が悪いのだろうか。なにかの病気では、と想像が悪い方に転がっていく。しかし、周囲の酔っ払いたちは、騒ぎながらも通り過ぎていくのみで、一向に声をかけようとしない。通りと彼とを何度も往復する視線。わずかな逡巡の後、小さな黒目は、彼へと固定された。 「だ、大丈夫ですか?」  マフラーを気にしながら腰をかがめて青年へ声をかける。短く刈り込まれた髪に、薄手のジャージのみの彼は、寒さに震えているようで、痛みをこらえているようにも思われた。  太一の呼びかけに、真っ赤になった指先がひくりと反応する。しかし、青年は、聞こえているにも関わらず、太一を頑として見なかった。太一は、医者ではないため、彼の容体を知ることはできない。だが、話しかけないでくれという無言のプレッシャーを理解することはできた。  寒空の下、防寒着を身に着けずに体を丸めている青年。何かしら事情があることは、容易に察せられた。  どうしよう。八の字の眉がさらに垂れ下がる。通りすがりである彼にできることは少ない。それでも。なにかできないだろうか。こんな寒空の下、薄着では風邪をひいてしまう。そんな人を見かけながら通り過ぎてしまえば、喉に小骨が引っかかったかのように、うだうだと考えてしまうだろう。そうして悩みながら手が移動する。ふと、ポケットをかすめた指先に、存在を主張するような暖かさを感じた。 「あ、あの、ご迷惑、かもしれませんが、使ってくれません、か」  そのままだと、風邪ひきますよ。そう続けて、手袋の上に乗せて、よく見えるように差し出す。ポケットからでてきたのは、先ほど開封したばかりの使い捨てカイロだ。声が聞こえなかったのか、顔すらあげない相手は受け取ろうという素振りも見せなかった。ぼんやりとした頭で、聞こえなかったのかもしれないと考える。見当違いの予測のまま、彼は、失礼しますね、と真っ赤に染まる耳と腕の隙間に落とし込んだ。  その瞬間、青年の肩が大袈裟なほどに跳ねる。  それに驚いた太一は、足を滑らせて尻餅をついた。バランスを崩したまま、青年に向けて声をかける。 「す、すみません! あ、熱かったですか」  熱かったんですよね。すみませんでした。その、とパニックになりながら言い募るうちに、低い声が響いた。 「いい加減にしてくれ。あんた、空気読めないのかよ」  軽くぼやけた視界を拭った先には、青年が、腕を組んだ先から目元だけを覗かせていた。切れ長の涼しげな目がきっと睨みつけてくる。瞳は、吸い込まれそうな深く濃い色をしていた。  夜。なにもかもを飲み込む色。濃いそれには、ライトによって、幾重にも星が浮かんでいた。 「綺麗な目……」 「は?」  太一のとんだ発言を聞いて、思わずといった具合に青年は顔をあげた。彼は、その目元同様、シャープなラインに、絶妙なバランスで男らしい端正な顔の造りだった。何重にも巻きつけたマフラーの奥でぽかんと口を開けてしまう太一。そういった反応が慣れているのか、青年は再び眉間に皺を寄せた。先ほどよりも深く刻まれ数も多い。 「わ、す、すみません。初対面の人にジロジロ見られたくないですよね」  張り付いていた視線をどうにか下へ持ってきて、太一は謝罪する。先ほどから謝罪の言葉しか口にしていないことに気付いた。繰り返される言葉は、人を苛立たせるだろう。そう思って、そのことを謝ろうとして、どうにか言葉を飲み込む。 「別にいいよ。慣れてるから」  反射的に青年の顔を見てしまった。視線が合う。黒い目に渦巻く何か。先ほどの星は、角度のせいか、消えてしまっている。暗く深いそれに輝く色が映えていた先ほどまでの印象は、星が消えてしまったことで、一層その「何か」を強調しているように見えた。ぐるぐると渦巻くそれは、彼が今日ここにいる原因なのだろう。太一が何かを察したと気付いたらしい青年の目が、こちらを睨んだ。 「だから、構わないでくれ」  震えを無理に抑えた声音。拒絶の字面なのに、縋るように聞こえた。あの夜色に見えたものは、太一自身にも覚えがあるものだった。そこは、とてもいたくてくらいだろうに。夜色の目で睨まれ、太一の視線が彷徨う。ふとショーウインドウの向こう側がよく見る内装だと気付く。  気付けば、コンビニの袋を差し出していた。中には、湯気を立てるシチューパイとプラスチックフォーク、おしぼりまで揃っている。 「迷惑だと思うなら、食べないで放置してください」  戸惑った表情の彼の正面に、袋を置く。おせっかいだとわかっていたから、返事は聞かなかった。  今日も疲れたな、と全身に重みを感じながら雪道を歩く。晴れていたが、積もっていた雪はさほど減っていない。表面が溶けたらしく、一歩一歩に力が入る。自然と下を見ながら歩いていたとき、既視感を覚えた靴が視界に入った。有名ブランドのロゴが入ったスニーカー。記憶の元を思い出せないまま、通り過ぎる。 「なぁ、ちょっと待てよ」  強い力で肩を引かれて、蹈鞴(たたら)を踏んだ。ずれたマフラーを巻き直しながら、改めて相手を見やる。  切れ長の涼しげな目元にシャープなラインの顔立ち。そして、夜を閉じ込めたかのような濃紺の瞳。そこで思い出したのは、無理やり渡した食べ物とカイロ、そして泣いたような彼の姿だ。今は、コートにマフラー、手袋としっかり防寒されている。足下のスニーカーだけが、あのときと同じだった。 「あれ、先週の……?」 「そう。シチューパイとカイロ」  白い息が流れて、青年の柔らかな微笑が少しだけ苦みが混じる。先日とは違う、どこか晴れやかな表情を見て、脳裏に記憶が溢れた。  先ほどまで忘れていた、「やらかした」記憶が、実感を伴って次々に思い出される。初対面の人間に「寒そうだから」という理由で、使いかけのカイロを押しつける。その上、食べ物までわざわざその場で買って目の前に置いていったのだ。いらなければ捨ててもらってかまわない、という台詞とともに。  おせっかいだという認識は、頭の片隅にあったはずなのに、行動は節度を守ったものではない。身勝手にもほどがある。もう二度と会うこともないだろう、と無意識に考えていたのだろう。勝手な振る舞いができるのは、そういう意識がどこかに潜んでいるからこそだ。 「突然押しつけてすみませんでしたっ!」  鮮明に蘇った記憶は、正直恥ずかしさで埋まりたいほどだった。表情が晴れやかになってよかったなぁ、とほのぼのしている暇はない。 「その、酔っ払っていたから、という理由は、よくないんですけど、ええと、すみませんでした……」  そう言ってもう一度深く頭を下げれば、慌てたらしい青年の声が落ちてくる。 「まぁ確かに突然だったし、びっくりしたけどさ」  ほら。とんとんと肩を叩かれ、反射的にあげた目線の先には、小さなビニル袋。背に立つコンビニの店名がプリントされたそこから、湯気が立っている。手渡された中身を見れば、シチューパイとプラスチックフォーク。そして、未開封のカイロだ。 「え、これ」 「その、貰って嬉しかったから」  あの場所で冷たくなっていた指先も温まった。貰った暖かい食べ物は、コンビニのものなのにとても美味しくて。だから、お礼をしたかったのだ、と。青年は、視線をそらしながらも意識はこちらに向けたまま、理由を言いきった。 「それに、わざわざ買ってきてくれたじゃん。あれ、俺のためだろ」  その場の勢いでしてしまった行動だった。ものがなかったから買ってきただけ。それでも、彼は、そんな風に捉え、わざわざ同じ商品を探してこうしてお返しをしてくれている。 「だから、さ。それ、返す」 「その、あ、りがとうございます。いただきますね」  もう一度。今度は丁寧に頭を下げた。その拍子にマフラーが落ちかける。太一は慣れた仕草でそれを元に戻しながら顔をあげ、今度こそどこへ行こうと一歩踏み出した。  ぐるるる、と何かが唸るような音を耳にする。間近に聞こえたそれを追うと、彼が恥ずかしそうに頭を掻いた。  この前よりは暖かくなった場所で、湯気を立てるシチューパイをつつく。隣の彼は、おでんにかぶりついていた。  コンビニの軒先で、寒空の下、知り合いでもない二人が料理をつつく。時折、互いに目を走らせていれば、目が合うのも当然だった。太一は、マフラーの奥でくすりと笑って、隣の青年に話しかける。 「あのときは、いつ帰りましたか」 「貰って食べて、すぐ」 「じゃあ、八時ぐらい、ですかね」 「そっすね。……今日は、まだあったかいよな」 「はい。明日は、また雪が降るらしいですけど」 「電車止まらねぇかな」 「それは、どうでしょうね」  ぽつりぽつり、と雪の代わりに降り積もる会話。たわいないことばかりを互いに言い合いながら食べ終える。ごみを片付けると、それじゃあ、と短い言葉を交わして帰路についた。  次の日。おざなりな店員の言葉を背にして、コンビニを出ると、昨日見たばかりの靴が視界に入った。有名ブランドのスポーツ用シューズ。少し古ぼけているものの、大切に使われているのか目立ったほつれは、ない。  視線をあげると、先週末と昨日の彼。目があった瞬間、同時に笑みを浮かべる。いいタイミングのそれに、またも同時に苦みが混じった。その日も、同じようにシチューパイとおでんを食べて話して解散した。

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