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第2話 mask2
それがぽつりぽつりと繰り返されて、気付けば一ヶ月が経っていた。大寒を過ぎ、寒さが緩んできた。そろそろ、マフラーと帽子を外してもいいかもしれない。職場の帰り道に、スポーツ用シューズを履いた青年と合流して、たわいのない話をして、帰る。食べるメニューは、適当だった。二人ともに味付けの異なるチキンを選び、一部を交換しあった日もあれば、暖めてもらった大判焼きをわけあったときもある。
トマトスープを手に取り、レジへ通す。ほとんど顔見知りとなってしまった店員が、太一の顔を見て、さっと小さな袋におしぼりを追加した。
「ありがとうございます」
軽快な音がして、後ろの電子レンジからスープが取り出される。ほんのりといい匂いがカウンターに充満し、思わず、すんと鼻を鳴らしてしまった。それに気付いたのか、店員から「今、キャンペーンやってますよ」と何かのキャラクターとのコラボのチラシを見せられた。そこには、サッカー少年が美味しそうにスープを飲んでおり、それにちなんだ新しい味のスープデリが明日発売するというものだった。
「今日買っていただいたレシートに割引券がついているので」
もしよければ。にっこりと微笑む店員。優しい笑顔に心臓が飛び跳ね、慌ててお礼を言って商品を受け取った。駆け足気味に店から出る。一気に冷気がまとわりつき、太一は、ぶるりと体を震わせた。
出入り口から数歩離れ、そっと店内を伺う。店員は、特に気にした様子もなく、ほかの客と会話していた。
「あ」
レジに並んで二番目に、頭ひとつぶん背の高い人影。毎週会っている彼だ。後ろ姿からでもわかるのは、それだけ目立つ容姿だからだろう。そして、彼の番となり、営業スマイルの店員が出迎える。先ほどまで浮かべていた笑顔が、一瞬こわばり口を空けてしまった。少々間抜けな表情。目を見開いたまま、彼の顔を凝視している。自分もあの人と同じ状態だったのだろうか。初めて会ったときのことを思い出し、マフラーを口元に持ち上げる。もう一度見れば、彼女は懸命に笑顔を維持しながらレジを打っていた。
明らかに、好意的な反応だった。顔がいい、ということを改めて実感する。会う人会う人に、そんな反応をされたら、心地いいだろうか。脳裏に、先ほどの店員の表情を思い描く。だが、浮かんだ人物は、ごちゃごちゃの線がひっきりなしに動いて、うまく像を結ばなかった。きっと、悪い反応よりはいいだろう。そんな雑な感想で結論づけた。
ぶぅん。横にあった扉が開く。彼の前に会計した客が、通っていった。暖かい風が吹き抜け、光とともに店内の声が聞こえてくる。
「キャンペーンやってるので、よかったら」
女性店員ならでは、と言えばいいのだろうか。上擦った声が、はっきりと耳に届く。対する彼の反応は、よく見えない。
「あ、あの――もし、よければ名前教えてください」
思わず振り返ってしまった。しかし、自動扉が、目の前で閉じる。頬を赤らめながら話す店員は、かわいらしい見た目の女性だった。あんな風に声をかけられたら、誰だって教えたくなるような、そんな人。きっと、答えるだろう。
あんな風に名前を尋ねられるなんて。すごい人だな。異性どころか同性とすら会話することがままならない太一からすれば、雲の上の出来事だ。好意的に受け止められて、興味をもたれる。それって、一体どんな心境なのだろう。名も知らぬ人々からの熱は、どんな心地がするのだろう。ぐるぐると想像すらできない虚像が、ひっきりなしに脳裏を駆け巡った。
赤く染まった床。落ちる声。楽しそうに笑いあう。扉の向こう側に――意識的に瞬きをする。過去の映像を追い払う。足に力をいれて、軽く足踏みをした。鉄のプレートが入った安全靴が目に入る。学生のころとはまったく違う武骨なそれに、大きくため息をついた。
「どうしたんすか」
聞き覚えのある声に、慌てて顔をあげる。店から出てきた彼。不思議そうにこちらを覗き込む。なんでもありません。と、笑えば、彼は首を傾げながらも今日の戦利品の話をしだした。
「昨日は、大雨でしたね。行き帰りは濡れませんでしたか」
「大丈夫っす。走ればなんとかなる距離なんで」
「そうですか。それは、よかった。俺は、結構降られちゃいました」
天気の話をしながら、再び足下を見る。少年の方を見れば、いつものロゴ入りスポーツシューズ。
「その靴って」
「アディダス。デザインがすきでさ。機能もいいやつなんだぜ」
「へぇ……。スポーツ用ですよね。いつも履いてますけど、なにかされてるんですか」
言いながら、先ほどのレシートを思い出す。そこには、彼とよく似た靴を履いているキャラクターがいた。あれは、スポーツ関連のキャンペーンだっただろうか。普段意識しない情報は、記憶に残らない。袋に突っ込んだままのレシートを手に取ろうとして、ふと気付いた。
彼から答えが返ってこない。不思議な間に、地面に縫い付けられていた視線が、彼へと向かう。
苦虫を潰したような顔。うずまく夜色。あのときと同じ表情だった。だが、こちらが顔を見ていることに気付いたのか、崩れた笑顔を浮かべる。
「サッカー、やってたんすよ」
過去形。触れてはいけないことだったろうか。そうなんですね。と返して、言葉が続かなかった。サッカーの知識がまったくない太一にとっては、彼が好きだったスポーツ以外の情報がない。一体、なにがあったのだろうか。ただ、初対面から進歩した程度の間柄で話すことではないことなのは、確かだ。
突然訪れた沈黙に、食べ物を咀嚼する音だけが響く。お互いが話さない間も、今までにあったけれど、この沈黙だけは、どうにもいただけない。横たわる重い空気に、喉が乾きそうだ。生唾を飲み込み、スープを飲み干す。
「――あ、あの」
なにか話題を。そう思って、思い出したのは、先日の一回り年上の同僚の言葉だった。
昼休みの現場。弁当のおかずを片手に、次に何を買うかを考えていた。そのときに、「最近機嫌がいいな」と話しかけられたのだ。職場の仲間内で、もっとも社交的で軟派なタイプ。昔は、やんちゃをしていたと言わんばかりの派手な髪を乱雑にまとめて、コンビニ弁当を脇に置いた。太一にも気兼ねなく声をかけてくるので、太一にとっては、とても話しやすい人だった。同僚の何気ない言葉に、最近よく会うコンビニの彼のことを伝える。まるで少女漫画だな、と苦笑しながらも、仲良くなったことを心底嬉しそうに聞いてくれた。その中で、一言。
「そういえば、名前、聞かれてましたね」
名前、知らないのか。心底驚いていた同僚の浅黒い顔。横に立つ、目を丸くした彼を見つめながら、そういえばどことなく目元が同僚に似ているな、と感じた。夜色の目が、マフラーに埋もれた太一の姿を映し出したまま、すっと細められた。
「さっきの、聞こえてたんだ?」
一瞬のこわばりの後、浮かべられた苦笑。あからさまな話題転換に、ぎこちなくのってくれている。少し早口のそれは、すべるように先ほどのやりとりを話し出した。
「あの店員さん、初対面なのによく言ったよ。営業中に客の名前を聞くって、なかなか積極的というか。俺は、ちゃんと仕事してくれって思ったけどさ。自分に自信があるタイプなんだろうな。俺、ここ使いづらくなっちゃったよ」
続けられる言葉に、はっとする。好意的な態度、というのも、全てがよいわけではないのだ。適切な距離感があるのだろう。
「かわいい人、でしたけど――」
「小綺麗にしてたな。……けど、俺は、なんていうか、別にいいって思ったっていうか」
うらやましい環境ではあるけれど、そうは思わない人もいるのか。改めて太一は、自身の行動を振り返る。邪険にされたことは、確かだ。それでも、関わった。悪い印象を持たれても仕方ないことなのに。
「なんていうか、すみません……」
「え、なんで、あんたが謝るんだ」
「いえ、先日のことで。改めて、よくなかったなぁって思いまして」
合点がいったようで、彼は、目を丸くした後に頭をかきながら、こちらに向き直る。いや、そのな。と続けて
「この前のことは、もういいって言ったじゃん」
もう、謝罪もお礼も終わった。全部片付いたことだ。そう言って、彼は笑った。一点の曇りもない笑みは、太一に向けられている。
「だから、というかさ。せっかくだし、名前、教えてくんない?」
初対面というわけでもない。あれから、何度も会っている。名前は知らないけれど、知り合い程度にはなれていた。顔を見れば、その人だとわかるというのは、案外、親近感を覚える。太一が言うはずだった台詞を、彼が口にする。それを聞いて、自身と同じ感想を持っていたことに驚き、じんわりとした熱が胸に灯った。
「あ、そう、ですね。ええと、俺は、菊井太一っていいます。二十四歳で、その、左官やってます」
マフラーの間から、ぽろりとこぼれる言葉。こんな、プライベートにおいての自己紹介なんて、いつぶりだろうか。交流が少ないことを如実に感じ取れてしまう自己紹介のぎこちなさに、彼は、肩を小さく震わせた。
「俺は、十津川泰正 。十七歳、高校生だから、敬語いらないっすよ」
トツカワタイセイ。名前を口の中で繰り返す。特徴的な名前に、どんな漢字を使うのだろうか、と考える。
「まさか、年上とは思わなかったんで、その、敬語してなくてすみませんっした」
上から落ちてきた台詞に、泰正を見る。気恥ずかしそうにして、これから怒られることを知っている子犬のような、そんな目をしていた。
「ふふ。別に、気にしてませんよ。そっちの方が話しやすいでしょう?」
「まぁ、な」
「だったら、気にしないでください」
「それなら、太一も、敬語やめてくれよ。俺の方が年下だしさ」
「わか――わかった」
目が合って、破顔一笑。上気した頬が、冷たい空気に晒されて、どこか痛そうだ。時計を見れば、そろそろ帰る時間。泰正も、また同じく時計を見ており、また目が合う。
「もう、こんな時間だね」
「あっという間だな」
「じゃあ、また今度」
「ああ、またな」
大きな背中を見送り、太一は、彼と別方向へ足を進めた。
コンビニからの帰り道。今日は、普段以上に、足が軽い。それは、新しい友人の名前を知ることができたという些細なことが理由だった。それでも、太一にとっては、大きな出来事だ。
職場と自宅の往復。生活に必要なものを、通販で取り寄せ、極力見慣れた場所以外には行かない生活。旅行も、あまり行ったことがなく、パスポートさえ持っていない。ひきこもり、というほどではないものの、外部との接触が極端に少ない。
だからこそ、ああやって誰かと親しくなれる予感は、彼の心を浮き立たせるには十分だった。だからこそ、不注意につながったのだろう。
どん、と衝撃が走る。後方に転びかけて、慌てて踏みとどまった。
「ご、ごめんなさ――」
「どこ見て歩いてンだよッ」
謝罪を遮って、鋭く低い声が響いた。あまりの音に、思わず顔をあげてしまう。
体躯 の大きな、サラリーマン風の男。彼の腕には、派手なメイクを施した女性が、しがみついている。二対の目が、太一をなめ回すように睨みつけた。
「す、すみません。ごめんなさい」
「前見て歩けよな――ったくよォ」
赤ら顔の二人は、か細い声を聞いて、犬や猫を追い払うような仕草をする。ぶつぶつと聞こえる文句を浴びながら、太一は、道の隅へと立ち退く。退いた先、革靴とハイヒールが、ふらふらとした足取りで通り過ぎていく。文句は聞こえてくるが、何を言っているのかはわからない。そのことに少しほっとしながら、首元に手を当てる。いつもの感触がなく、何度か探すように手を動かした。街灯に照らされた道に、視線をめぐらせる。ほんの少し離れた先に、見慣れた色が落ちていた。ぶつかったときに、落ちたらしい。きちんと見つかったことに安堵して、太一は、それを拾おうとした。
「さっきのやつ、すげぇ面白い顔してたな」
「やばくない? あの顔で出歩けるとか」
偶然にも、あの二人が去っていく方向だった。近づいてしまったおかげで、聞こえてきた「文句 」の中身。ほかに人がおらず、夜の静けさも手伝って、耳が拾ってしまったそれ。拾いかけたマフラーを、ぎゅっと握りしめて、音を立てないようにその場を去った。
ぱた、と小さな音を立てて扉が閉まる。冷え切った室内の空気が体を突き刺していく。ろくな暖房のない場所だったが、見慣れた場所 に人心地ついた。
きちんと鍵をかけたことを確認して、外套 や荷物、頑なに外さなかった帽子を外す。汚れてしまったマフラーは、電灯の下、先日の雨で濡れていた。煎餅布団の上に荷物を放って、風呂場へ向かう。洗面器と、洗剤と。ガスの電源をいれ、蛇口をひねる。出てくる水を見つめて、ふと顔をああげた。
映し出されるのは、崩れた顔。
嘲笑う二人の声が、耳の中で反響する。酒に飲んで気が大きくなっていた人が、苛立ち紛れに言っていただけ。二度と会うこともない、赤の他人だ。あのころのような、人々は、いない。あの人たちではない。そう、何度も言い聞かせても、鏡の中からは、煮詰まって濁った黒目が見つめ返してくる。
「やっぱり、いやな顔、なんだなぁ」
湯気が、鏡の中を覆い隠していく。このまま、自分も消えてしまえたらいいのに。そう願いながら、風呂場の扉を閉めた。
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