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第3話 masked1
菊井と耳元で叫ばれた。
と、同時に背中を衝撃が襲った。倒れそうになりながら、どうにか耐えると同時に振り向く。
「悪いけど、そこに置きたいからどいてくれ」
セメントの袋を抱えた同僚が、怪訝そうな表情で立っていた。仕事中ということを思い出し、慌てて謝罪を口にしながら横へずれる。彼は、ぼーっとすんなよと軽く太一の頭を撫でて作業に戻っていった。太一は、軽く頬を叩いて思考を追い払う。
「雇ってもらっているのに、こんなんじゃダメだ」
目の前には、作業を終えたばかりの壁がある。風呂場になると聞いていたそこは、モザイクタイルを使ったおしゃれな壁にしたいと家主が言っていた。現場監督を通して伝え聞いていた言葉を思い出し、改めて作業のチェックを行う。貼る作業自体は、きちんと終えていたようだ。ずれはなく、出来映えも上々。目に見える部分であり、生活の中でほぼ毎日目にする箇所でもあるため、作業は慎重に行わなくてはいけない。
そのはずなのに、今日は、ぼんやりしている。このまま集中ができないのであれば、現場の邪魔になるだろう。
迷惑がかかる。それは、なんとしても避けなくては。左官職は、だんだんと仕事が減っている。少しのミスが、次の仕事をなくしてしまうかもしれないのだ。分厚い手袋に包まれた手を思い切り握りしめ、深呼吸をする。余計な考えを追い出して、現場監督の下へ報告に行った。
「――おう。菊井、今日は遅かったな」
太一の報告に、縦にも横にも大きな体が振り返る。白髪交じりの短髪の強面が、太い眉を器用に片方だけあげた。
「すみません」
少しだけ普段より低い声の上司に、機嫌が悪いことを悟る。当然だ。作業日数は限られている。丁寧さとともに時間との勝負ともなるのだから。頭をさげた太一の頭上から、大きなため息が聞こえる。
「作業は、きちんと終えてるみてェだがな。俺らの仕事は危ねェんだってこと、わかってるな?」
「はい」
視線が痛い。当然の叱責に覚悟をしていたものの、心臓が早鐘を打ち、立っている地面を遠くに感じた。足の感覚が遠のいていく。違う、不当に責められているわけじゃない。しっかりしろ。言い聞かせながら唇をかみしめ、灰色の床を睨んだ。
「おーい、お前ら休憩だ。飯喰え」
ふいに、監督が、体に見合った野太い声で昼休憩の合図を出した。散り散りだった同僚や先輩たちが集まってきて、それぞれの定位置に座り出す。
賑やかな音に、体のこわばりが解けていく。そうだ、ここは「職場」だ。「学校」じゃない。
「菊井、今日はこっち来い」
「え、はい」
背中から力が抜けそうになって慌ててピンと伸ばす。一つの部屋となる仕切りの向こうへ向かっていく彼の背を追いかける。壁ひとつ向こうに来れば、人はほとんどいない。それぞれ仲間内でわかれて昼休憩をとるここでは、それぞれが居心地のいい場所を求めて、適当な場所で食休みをとる。先ほどいた場所が、もっとも人が集まりやすく、過ごしやすい場所だ。人がいないのは、当然だろう。
適当に座れ、と顎で周囲を示して、彼は、どっかと座る。大きな膝の上には、かわいらしい弁当箱が取り出されていた。それを横目に見ながら、ほんの少し空間を空けて隣に座る。
「太一」
ふいに呼ばれて卵焼きを持っていた箸がずれた。慌てて弁当箱のふたで受け止めた後、背筋を伸ばし、彼の目を見て返事をした。
「はい、監督」
普段の癖で職務上の肩書きを呼んでしまい、彼の眉間に皺が寄る。鬼もかくやの表情だが、長年の付き合いのものならば彼が悲しんでいることがわかるだろう。
「あ、すみません。太郎おじさん」
ごくわずかな変化だが、皺が減り目元が和んだ。彼はゆっくりと水筒から出した味噌汁を飲み込んでから口を開く。
「聞き耳立てるような馬鹿はここにいねェ。他人の悩みを馬鹿にするようなアホもいねェ。無理するこたァねぇが、いつでも相談しろ」
意識をしているのだろう、眉間の皺がまた減っていた。小さく細い目の色もどこか柔らかくなっている。
幼いころから太一は、そんな叔父の豊かではないながらも相手を配慮する顔の動きが好きだった。
「……久々に顔を見られちゃった」
ぶつかってしまった二人組の嘲笑う声が脳裏に蘇る。
それにつられたように誰かの囁きが聞こえてくる。顰 められた眉、歪んだ顔、怯えた目、どこから聞こえた誰かの台詞。高音、低音、子供の声。いくつもの声の中からひとつだけ大きく響く。いつも笑顔だった彼女。いつも優しかった掌。いつも心地よかった言葉。
それら全てを打ち消した、その台詞。
「――――」
今も耳にこびりついて離れない。
ぽん、と頭に優しい重みが乗せられた。ゆっくりと左右に少しだけぎこちなく動くそれは、でこぼことした叔父の掌だ。決定的だったあのときも同じようにしてくれた、武骨な叔父らしい撫で方だった。
手の中のおにぎりがぼやける。目玉が熱い。頬も熱くなって、頭の中に言葉が飛び交う。それなのに口は震えて動こうとしない。
あのときとは違うのに。あのときのようなことにはならないと知っているのに。
「う……ふ、う、ああ」
濁った声が零れ落ちて膝の上に沁みを作っていった。
紫色の空の向こうからなげかける光が、短くなっていく。今にも地平線の向こう側へ姿を消してしまいそうな太陽を見ながら、体中を刺すような寒さの中を歩きだす。一般的な夕飯の時刻すら超えた短針を確認し、いつもの景色よりも活気が減った帰り道。ぼやけた視界とぼんやりした感覚に、何も言わず蒸しタオルを渡してくれた同僚を思い出した。いつもより小さいだろう目元をほぐしながら、今日の献立を考える。しかし、浮かぶメニューに決定打はなく、ため息が口をついて出た。
ふと見えてきたおにぎり百円セールの文字。普段利用しているコンビニだ。この時期、よく残り物を半額で売っている。そして、さまざまな人間が利用する場所でもある。特にセール中の人混みは、なかなかのものだ。また、近くに地下鉄の出入り口があるという立地のおかげもあって、盛況している部類だ。
今日も、足は、止まらなかった。女々しいなぁ、と呟いた癖に、それでも足は速度を増した。叔父に吐き出したおかげで、息のしづらさは少なくなったものの、人が多い場所に向かうことが難しい。
そういえば、あれから泰正に会えていない。もともと、毎日会う、というわけではなかった。それぞれが、似たような時間にコンビニの前で会えば、一緒に食べる、という程度だった。けれど、これほどコンビニから遠のいたことはない。そろそろ、彼に会いたい気持ちが燻っていた。
「太一ッ」
鋭く響いた声。すわ幻聴か。そう思っても、どこか請うようなそれは、踏み出しかけた足を戻すには十分だった。振り返れば、記憶にあったとおりの姿。どこかで運動してきたらしく、ジャージにタオルを引っかけただけのラフなスポーツ少年。大寒も過ぎて多少は過ごしやすくなったとはいえ、まだまだ肌寒い。年齢差かな、とぼんやり考えていると、泰正は、目の前まで走ってきて立ち止まった。
「久しぶり――その、今日は食べないのか?」
濃紺の鋭い目が、力なく伏せられる。そこで思い出す。あの日、泰正とは、「また明日」と言って別れたのだ。そんな簡単な事実に思い至ったのは、彼の手に新商品の惣菜が握られていることに気付いてからだった。一週間前、太一が売り切れで買えずに悔しいとぼやいていた品物。
ぽ、と暖かい何かが胸に灯る。じんわりと浸み込んでいく。目の奥、そして頬に。
「へ、たい、な」
太一を見て一瞬動きを止める泰正。ざっと一気に青ざめた。わたわたとこちらに手を伸ばそうとして中空に留まる。何かをしようとして途中でやめてしまった中途半端で妙な動き。ぼやけた視界に映るそれは、ひどく滑稽で思わず噴出してしまう。
今度は笑い出した彼に、泰正は、思考停止に追いやられる。いきなり泣いたと思ったら、次は笑っている。彼の中で一体何があったのか、皆目見当もつかない思考回路。
「なんでも、ない。うん、ごめんね」
ありがとう。そう言って微笑む。溢れ出る涙を拭い、泰正を見た太一は、澄んだ目をしていた。
街灯に集まる蛾が、ぱたぱたと音を立てて飛び回る。コンビニから少し離れた公園の中。入り口から少しわけいったベンチに二人は座っていた。
二人の手の中には、缶コーヒー。間におかれた袋の中には、二人で平らげた惣菜の包み紙が入っている。あのあと、涙を止められなかった太一に慌てた泰正が、この公園まで彼を引っ張ってきたのだ。
二人で飲み食いするうちに、太一の涙もなんとかして収まる。太一の手の中には、彼が買ってきてくれた惣菜の最後のひとかけら。新しいフレーバーはおいしかったが、少々塩辛かった。
ちらり、と隣を見る。涙をこぼす太一に、彼は、何をいうでもなく、ただ隣で飲み食いしていた。さすがに、太一よりも早く食べ終えてしまい、今は手元から立ち上る湯気を、ぼんやり眺めている。何を考えているのか読み取ることはできない。視線を落とせば、缶コーヒーが目に入る。視界がぼやけたままでうまく動くことなどできるはずもなく、今、手元にあるものはすべて泰正が持ってきたものだ。お礼を、いわなくては。
最後の一口を、口にほうりこみ、手にしていた包み紙を、間においてあるゴミ袋へ入れる。
「あの、泰正くん」
夜色の瞳が、こちらを捉える。緊張したような面持ちで、彼は、太一の様子を伺った。
「ありがとう。すごくおいしかった。コーヒーまでもらっちゃってごめんね。今度、何かおごるよ」
こくん、と頷く泰正。首振り人形のような動きだ。どうしたのだろう。首を傾げて、もうひとつ言わねばならないことを思い出す。
「あと、ごめんね。コンビニ、なかなか行けなくて」
「いや、いいよ。もともと、約束してたわけでもねーし」
固い声で、苦みが混じった笑顔。いいよ、という言葉は、諦めにも聞こえた。
「でも、待ってたよね。こうして、俺が買いたいなって思ってたもの、覚えててくれるぐらいには」
「それは、まぁ」
頬をかいてそっぽを向く。思ったよりもかわいらしい反応に、太一が考えていた以上の好意を向けてもらえている可能性に思い至る。
事情を細かく話すことはできないけれど、嘘をつくこともできない。主人を待つ犬のような、あの表情をしていたのかもしれない彼が、コンビニの前で佇む様子を思い浮かべてしまい、一人笑う。マフラーに吐息がかかって、ただでさえ狭い視界を塞いだ。
「あのね、俺、人混みが苦手なんだ」
正確に言えば、人と対峙することが苦手だ。人が多ければ多いほど、息が詰まる。最近は、収まっていたというのに、ぶりかえしてしまった。原因は、すぐに思い浮かべられる。だが、泰正には関係のないことだ。その部分は伏せて、ただ苦手であり、どうしても難しいのだと伝える。
「もちろん、耐えきれないほどじゃないよ。本当に病院が必要になるほどの異常にはならない。けれど、心臓をちくちくと刺して、ぎゅっと締められるような感覚。それがずっと続くんだ」
失敗だったかな。説明を続けて、ちらと隣を見る。明るく流せればよかったのに、結局重くなってしまった。これなら、きちんと理由も含めて話してしまった方がよかったかもしれない。それでも、それを話すには、少々勇気が足りなかった。
泰正は、口元に手をあてて、何かを考え込んでいるようだった。太一から注がれる視線に気づいたのか、ふっと顔をあげる。濃紺の夜色は、静かだった。
「それじゃあ、俺は、どうすればいい?」
ひどく真剣な表情を浮かべて、彼は、そう尋ねてきた。目を瞠り、言葉に詰まる。
「あ、ごめん。普通は、自分で考えろってことだよ、な。考えられるもんな、それぐらい」
そう言ってから、彼は視線を下げる。角度がかわってしまい、目元が暗く、太一からは何も見えなかった。
「でもさ、その――俺も、苦手、みたいなんだ」
人混みが苦手ではない。けれど、泰正も、人と対峙することが難しい、と言う。
「俺の場合は、太一とは違うんだけどさ。話すとき、相手のことがわからなくなるっていうか。つい、いらないことまで言っちまう、みたいなんだ」
相手を想像することができない。何を考えているのか、相手の好悪はどんなものだろうか、どんな風に伝えればいいのか。そういったものを考える前に、言葉が出てしまう。
事細かな自分がとってしまう態度を伝える彼の言葉には、「みたい」「らしい」という単語が多く出てきた。彼自身の考えではないのだろう。だが、言われたその言葉に対して、引っかかりを覚えている。だからこそ、こうして、太一に話してくれているのだろう。
「だから、太一は、こう、苦手なんだろ? 相手と話すこと自体が。俺は、話すと相手を傷つけるみたいだから、なんか、難しいっていうか」
ああもう。頭をぐしゃぐしゃにかき乱して、彼は、唸る。
「あの、なんとなく、わかるから大丈夫だよ」
先ほどいっていた通りに、相手を傷つけないようにする物言いを探しているのだろう。だから、今までのようなすっぱりとした言葉ではなく、曖昧な表現が多い。
そして、太一の苦手という発言を汲み取って、なんとかしようと心を砕いてくれている。そのことがわかった。もしかしたら、そういった配慮は、今までしたことはないのかもしれない。だからこそ、こうやって唸っているのだろう。
「今まで考えたことがなかったところ、なんだよね?」
「まぁな。別に、いらないだろって思ってたから」
いらないと思っていた理由は、なんだろう。そう考えるが、太一も泰正もこの話をするにあたって、根本的な原因や事情を話していない。無理に聞けば、この話は消えてしまう。そんな気がした。
「だから、もしかしてだけど、俺に対してどうすればいいかわからないから、決めてほしいって話なの、かな」
最初の彼の答えを思い出す。どうすればいい、と聞いてきたときの彼の真剣な目を。相手の意思を汲み取れないなら、聞くしかない。だから、直球勝負で、彼は、聞いてきたのだ。もっとうまいやり方は、あっただろうに。ここ一ヶ月ほどで知れた彼らしい一面だ。
「そうなる」
「じゃあさ。一緒に、練習しようよ」
俺は、誰かと会話する練習。泰正くんは、誰かを考えて会話する練習。不器用なもの同士だからこそ、きっと悩みも共有できるだろうから。太一は、マフラーと帽子の隙間から、泰正を見る。真剣な夜色の目を。街灯の光が、彼の目に星を投げかける。
「わかった。じゃあ、これからもよろしくな」
歯を見せて笑う彼は、とても輝いて見えた。
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