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【最終話】第13話

「少し早いけど、店を閉めよう。月曜だし、今日はこれ以上捌けないだろう」  伝票チェックをしていた市井は、ユースケに声を掛けた。  同意して、ユースケが店先の花を片付け始める。  市井も、一日の売り上げの精算作業に取り掛かった。 「すみません。今日は、閉店なんですよ」  ユースケの声に顔をあげると、そこには花屋が似合わない、いかつい顔の男がいた。  前回の訪問から、1ヶ月半。  そろそろ、動きがあると思っていた。  市井は前に割り込むと、心配するユースケを説き伏せ、先に家に帰らせた。 「池田さん、何か御用ですか?」 「市井、さすがだな?」 「なんのことでしょう?」 「山本組の顧問弁護士になるとは、考えたな」 「前科者になる可能性が高かったので、今まではわざわざ登録しなかったんです。せっかく、堅気の人間になったんで、この機会に弁護士登録をしたのですよ」  市井は申し訳なさそうな表情を作り、言葉を続ける。 「顧問弁護士は、外部の人間。池田さんの配下に下ることはできず、残念です。もし、お困りの際は、組長を通してご連絡頂きましたら、サポートしますんで」  池田は険しい顔のまま、市井を睨んだ。 「そんなことで、この俺から逃げられると思うなよ」 「わかっていると思いますが、顧問弁護士に手を出すと、組全体を敵に回すことになりますよ? ましてやただの弁護士じゃない。ヤクザのシノギに精通した腕利きの経営コンサルも兼ねている。抜け駆けしないように皆が目を光らせている中、池田さんともあろう人が、そんな馬鹿な真似をするとは思いませんが」  ニッコリと極上の笑顔で笑いかけると、池田の顔が変化する。  今までとは違う自嘲するような表情を浮かべ、市井の腕を掴んで引き寄せた。  そのまま腰に手を回され、まるで、抱きしめられるような形になる。 「俺だって、自分がこんなに馬鹿になるとは思わなかった。お前をどうしても諦められない。きっと、一目惚れだ。18で挨拶に来た時から、会うたびにお前に惚れていく。どうしようもないほどに」  池田の顔がすぐ目の前に迫る。唇が触れそうなギリギリのラインだ。 「俺のモノになれ」  池田は、おそろしく頭の切れる男だ。先を見通す確かな目も持っている。  私情に流されることはない。  そんな池田に、そう言った意味で口説かれるとは思わなかった。  市井は、目を伏せた。  内心は、大いに戸惑っていた。  どうすれば、この場を切り抜けることが出来るだろうか?  このままでは、拉致されかねない。  市井が息を吸い込んだ、そのとき、  バスコーン  何かが池田の脳天を直撃した。  頭を抑えながら顔を真っ赤にして、池田はボールを掴んだ。 「なんじゃ、こりゃっ!」  前と全く同じシチュエーションに同じ反応。  違うのは、ボールの行動だ。  見る見るうちに、ニョキニョキと何本も触手が現れ、池田の方向に伸びる。  第三者のいる前でボールが変化するのは、初めて。  言葉を失った池田だけではなく、見慣れたはずの市井も固まってしまう。  水色のゴムボールから伸びた触手は、まるで粘膜のようにヌルヌルと表面を光らせながら、真っ直ぐに池田の首を目指した。  驚くべき速さで、がっしりしたそこに絡みつく。 「うわっっ」  池田が悲鳴にならない、くぐもった呻き声をあげた。  触手は容赦なく、ギリギリと締め上げる。 「池田さん。俺はあんたのモノにはなれない。諦めてくれ」  池田は逃れようと、必死に絡みつく触手に爪を立ててもがくが、力は弱まることはない。  暫く抵抗するも、とうとう、息が出来ない苦しさに顔を引き攣らせながら、勢いよく何度も頷いた。 「おい? もう、いいだろう?」  市井が声を掛けても、触手は締め上げる力を弱めない。  池田の顔が紫色に腫れ上がり、白目をむいて痙攣した。  池田がぐったりと意識を失ったのを見届け、ようやく、触手は離れた。 「お礼を言うべきか? 少し、やりすぎだぞ」 「殺してもいいぐらいだ。コイツは、しぶとい」 「でも、まあ、これで諦めるだろ」  そのままにしておくこともできず、ペチペチと軽く頬を叩くと、池田はすぐに意識を取り戻した。 「ば、化け物っ」  怯えた目でボールを見ると、すごい勢いで店の外に飛び出していった。 「化け物じゃねーよ。こいつは、俺にとって大事な……」  腹立たしくて、心の声がそのまま言葉となる。  大事な……このあとに、続く言葉はなんだ?  自分は、何を言うつもりだったのか。  ドキドキと心臓が高鳴る。 「ついに、俺に惚れたか?」  顔がないくせに、嬉しさがダダ漏れている。  ますます鼓動が跳ね上がる。 「はあ? どうして、ボールなんかに惚れなきゃならねーんだ?」  市井は、照れ隠しに憎まれ口を叩いた。  人間でない物体にときめいて、しかも愛おしく感じているなんて、絶対に認めたくない。 「俺、変だ……また、進化しそう」  ボールは水色からピンク色に変化した。  触手はにょろにょろと忍び寄ってきると、市井の唇の中にもぐり込んだ。  触手の先が舌のように丸みを帯びた形状に変形し、まるで、ディープキスのように市井の舌に絡んでくる。  卑猥な水音が辺りに響く。 「あっあっ」  呻き声とも喘ぎ声ともつかないものが市井の口から発せられる。  いつの間にか服の中に入り込んできたもう一本の触手が、市井のペニスに絡みついてくる。 「ここが、好きだろ?」 「そ、そこっっ、んっ、いい、っいくっっ」 「俺に惚れたって口に出して言えよ? ちゃんと言えたら、いかせてやるよ」  進化したのか、元からか、生意気にも言葉攻めを仕掛けてくる。  絶対に口にするもんかっ!と思うのに、ヌルヌルとしたものが緩急つけて亀頭を刺激する。人間では到底できないような絶妙な動きに、極限まで追い立てられる。  頭の中は、真っ白。何も考えられない。  体がガクガクして、小刻みに痙攣し始める。  この感覚は、ジェットコースターの最頂上。  一気に下る、まさにその一歩手前。  向かうのは天国なのか、はたまた地獄なのか。 「み、認める。好きだ。お前のことが好きだ。大好きだっ!!」  カリっと爪のようなもので、切っ先を引っ掛かれた。  それが合図となって、目もくらむような上空から谷底へ、真っ逆さまに、快楽の渦を駆け下りる。 「ああーっっ」  体中の水分が蒸発するような、経験したことがない絶頂。 「いいっ、あっ」 「もっと、俺のことを好きになれっ」  いつの間にか太くて長いモノが窄まりから粘膜に入り込んでいた。  前立腺を狙い撃ちし、ゴリゴリとスリつける。  体を穿つ規則的な律動に、市井はなすすべもなく翻弄された。    何が何か、わからない。  理性は、どこかに消し飛んでしまっていた。  あるのは、快楽と愛おしさだけ。 「すき……す、すきっ、あいしている」  気がつけば、市井は甘い涙を流しながら、呪文のように繰り返していた。  意地悪で、エッチで、精力絶倫。    だけど、意地悪な口調の裏には、  さりげない思いやりがあって、思慮深くて、市井への溢れんばかりの愛情がある。  そんなボールは、もはや物ではなくて、自分にとっては、何ものにも代えがたい大事なモノ。  者でも、物でもない。モノ。  唯一のモノ。  もう、ずっと前から……ユースケと再会する前からボールは特別なモノだった。  理性を手放した市井は、ボールへの愛情を抵抗なく素直に口にしていた。  愛している。ボールのことをいつの間にか愛していた。  その時、ガラリと店の裏口が開く音がした。 「市井? いるの?……えっ? 何?」  ユースケの声に場の空気が凍る。劣情に沸いた熱が一瞬で静まり返る。  市井の陰部は大きく開かれ、接合部があらわになっている。 「ええっ!」  ヌプリとそこから引き抜かれると、シュルシュルと本体に戻った  何の変哲も無いゴムボールに戻り、何も知りませんっという顔で台の上から床にコロコロと転がった。 「いや、誤魔化せてねーしっ!」  思わず、突っ込みをいれた市井は、服装を整えながら、ユースケに向き直った。 「ユースケ、今、目にした通りだ。このボールと俺はデキてる。信じられないかもしれないけど、俺はこいつを愛しているんだ」  余計な言葉はいらない。  ありのままの気持ちを伝える。  それが市井にできる精一杯の誠意。 「約束だからこれからもずっとユースケと一緒にいる。だけど、俺が愛しているのは、こいつだけ」  ユースケの顔が驚愕に歪む。  罪悪感に萎えそうになる気持ちを必死に鼓舞する。  ちゃんと伝えなくてはダメだ。  ユースケはわかってくれるはず。否、わかってくれるまで説明する義務が自分にはある。 「子供のころから、ユースケは特別だった。ユースケのことは今でも好きだ。でも、愛しているのはこいつだけなんだ。この気持ちは、自分でもどうしようもない。制御できない」 「はあ? 変だろ? おかしいだろ? ずっと昔から市井のことを思っている人間の俺がどうして、こんな化け物に負けるんだ?」 「ユースケまで、こいつのことを化け物って言うのか?」 「だって、化け物だろ? こんな化け物に市井を渡さない」 「何を言っても無駄だ。俺は、もう、こいつのモノだ。誰も何もできない。俺自身も止められない」 「絶対、渡さない。渡すくらいなら……」  ユースケは正気を失くした目つきで剪定ばさみを手に取ると、市井に向かってきた。  実際は一瞬の出来事が、一挙手一投足がスローモーションのように目に映る。  ガキ大将がそのまま大人になったユースケ。  本来なら無縁の苦しみを与えてしまっている。  ユースケを守るはずの自分が、よりにもよってこんな顔をさせてしまった。  心の中で、謝罪する。  ユースケになら刺されてもいい。その権利が、ユースケにはある。  市井は静かに、目を閉じた。 「!?」  弾力のある感触に目を開けると、市井を庇うようにボールが全身でハサミを受け止めていた。  先がグリグリとめり込んでいる。 「何で?」  思わず、疑問がもれる。  こいつなら、簡単に触手でハサミを取り上げることが出来るはず。  なのに、どうしてそれをしなかった? 「俺、本当に進化した。だって、自分の命を投げ出すなんて、人間にしかできないことをやってるんだから」  こいつは、バカか?  市井の視界がぼやける。  しっかりと、目に焼き付けたいのに、溢れるもので前が見えない。 「泣くな……今までありがとう……愛しているって言ってくれて嬉しかった……本当に嬉しかった……心置きなく、旅立てる……」 「……バカ……お前は本当にバカだっっ」  もっと、他に言いたいことがあるのに、言葉にならない。  毒気の抜けた顔で、放心したように立ちつくしていたユースケが、へなへなと座り込んだ。  謝罪の言葉を繰り返している。  市井は、ボールをハサミごと両手に抱きしめた。  その存在を全身で感じていたかった。  このまま、一緒に消えても構わない。  ボールは、その気持ちに応じるように、見たこともないような不思議な色に輝いた。  玉虫色のような、透明なような、暖かい色。  見るモノ全てを幸福にする色。  ボールの正体が、ようやく理解できる。  この幸福色の光が、こいつの本体。  どうした加減か、あの秘密基地のボールの中に入り込んでしまった。  人間の気持ちを吸収して、生きる糧としながら進化するこいつは、1年に一回ユースケの思念を吸収した。  そして、あの雨の日に市井に会いに来たのだ。 「うぉぉっ」  辺りが不思議な光に包まれた瞬間、光は静かに弾けた。  キラキラと幸福の断片が舞っているのに、涙が次から次と溢れ出る。 「なんだよ? 結局、お前は何がしたかったんだよ?」  泣く子も黙る、皆が恐れるような自分が、子供のようにオンオンと泣いている。  かっこ悪い。みっともない。  だけど、涙が止まらない。 「だいの大人がみっともない。いい加減、泣きやめっ!」  聞き覚えのある声、口調に、市井は固まった。 「へ?」  涙も引っ込む。 「ただいま」  照れくさそうに男は笑った。  190cmはありそうな長身に、ブロンド。吸い込まれそうなパープルアイ。  絵画から抜け出したような美しい顔立ちに、完璧なボディ。  どこの国の人間かわからない異国情緒あふれる外見なのに、コテコテの日本語。 「直径15cmだったくせに、俺よりも身長が高くなりやがって」 「うん。お前より大きくなったよ?」 「水色だったくせに、パツキンになりやがって」 「うん。似合ってるだろ?」 「のっぺりと平坦な球面だったくせに、天使みたいなツラになりやがって」 「うん。わかりやすくなっただろ?」 「触手だったくせに、こんな逞しい腕になりやがって」 「うん。あっちの方も満足させられると思うよ?」  自信過剰で、さりげなく下ネタを挟んでくるのは相変わらず。 「ボールって呼んでいいのかよ?」 「ボールでも、ポールでもお好きなように」 「旅立ったんじゃなかったのかよ?」 「うん、そのつもりだったんだけど、やっぱり、心残りがあって」 「なんで、人間になってるんだよ?」 「『カエルの王様』と同じで、王女様のキスで魔法が解けたから」 「キスなんてしてねーし。それに、あの童話は、壁に叩きつけられて魔法がとけるんだし」  男が市井の腕を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめる。  中々止まらない言葉が、男の唇で塞がれる。  市井は、間違いないと確信する。  理屈じゃない。  説明はできない。  ただ、市井にはわかる。  目で見えない、魂の奥底でこの男と結びついているってことが。  男の腕の中で、引っ込んだはずの涙がジワリと浮き出る。 「おかえり」  市井は、ようやく、一番伝えたい言葉を口にすることが出来た。

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