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第5話
慎との通話の後、念のためもう一度、今度は共有リビングやキッチンなども捜索したが、やはり朝倉が黒である証拠は見つけることができなかった。売人なら怪しい粉の一つや二つ、家にあっても可笑しくないのだが。
そうこうしているうちに、朝倉が帰ってきた物音が聞こえたので、速やかにソファに座りテレビの前で寛ぎながら携帯をいじる姿勢を取った。その五秒ほどあとに、リビングの扉が開く。
「ただいま〜」
間延びした暢気な声ではあるが、朝よりも疲れが感じられる声だった。顔を上げると、朝倉は眠たげに瞬きをしていた。
「意外と早かったな」
「部長が急用が出来たからって解散になったんだ。もう、助かったよぉ……」
荷物を床に放り出し、倒れこむように二人掛けソファの俺の隣に収まる。途端に匂う香水らしき香りに思わず眉を顰めた。人工的な香りは仄かに香るくらいなら割と好きだが、キツイ匂いだったら、まだ汗臭い方がマシだ。
「随分、疲れてそうだな」
「そりゃあね！ 鬼だからあの部長は。あああああ俺こーゆーの向いてないホント入る部活間違ったぁああぁ……」
うだうだとぼやきながらこちらに寄りかかってくる朝倉。ミルクティーのような色のやや傷んだ髪が、俺の首元を擽った。特に返答も思い浮かばないので適当に相槌を打っていたのだが、「うだうだ」が「むにゃむにゃ」に代わって俺の膝で仮眠を取ろうとし始めた時には、流石にぎょっとした。
「おい、メシ行くんじゃねえの？ 起きろって」
「むにゃ……男の太ももって硬いむにゃむにゃ……」
「お前、絶対起きてるだろ」
悪かったな硬くて。というか膝枕を許可した覚えもないし、文句があるならすぐにやめてくれて結構なんだけどな。
悪ふざけだろうと踏んで数回揺さぶり、ついでに頬をペチペチと叩いてみたものの、朝倉は少し唸るだけで無反応に等しかった。本当に眠ってしまったらしい。
マジかよ。俺こいつに膝枕処女捧げちゃったよ。慎にもしたことないのに！
弛緩した朝倉の身体の重みが、枕にされた太腿から伝わってくる。無防備な顔は安らかで、小さく開いた口からは寝息を立てている。時折、何かで盛っているらしい、重たそうな睫毛がピクリと震える以外は、全く動かない。
「おーい、トモー……？」
もう一度呼びかけるが、やはり返事はない。
俺は徐に朝倉の身体に手を置いた。左手は、眠りに落ちたルームメイトを気遣うように肩に置く。そして右手で、朝倉の着崩された制服のポケットを慎重に漁った。スラックスの前ポケットには、何もない。尻ポケットには小銭入れ。ジャケットの内側には携帯。ジャケットとカーディガンに覆われた更に先の、ワイシャツの胸ポケットは――
「――あれぇ？ 俺今襲われてる？」
一瞬にして心臓が凍りついた。
朝倉の丸い目は、虹彩まで満月のように丸く見開かれて、じっと俺を見上げていた。
凍りついたのは心臓だけで、表情には出さないように努め、極めて自然に一笑した。
「はぁ？ 何言ってんだよ。シャツが乱れてるから直しただけだろ」
「あ、そうなの？ 目が覚めたら俺のこと触ってるから、てっきり俺の魅力にぐらーっときちゃったのかと思ったよ」
「ははっ、なんだそりゃ。自意識過剰だから安心しろよ」
「なんだ自意識過剰かぁ。あれ、俺ってば恥ずかしいやつじゃない？」
ヘラヘラと釣られて笑う朝倉を膝から追い立てながら、俺もニコニコと笑い続けた。だが頭の中は別のことで埋め尽くされていた。
呼吸のリズム、全身の弛緩。朝倉は完全に、意識を飛ばしていた。演技だというのか？ そんなはずはない。
ならば俺の動く気配を察知して目を覚ました？ それはあり得ない話ではない。売人をしているのだ、警戒心が高いのは当然のことだろう。
……いや、そんなことはもはや、どうでもいい。
「急に寝入るなんて、相当疲れてるんだな。混み出す前にさっさとメシにして、部屋でゆっくりしようぜ」
「さんせ〜い。行こ行こ！」
――重要なことは、朝倉の胸ポケットを探りかけた時、確かに小さなビニールの袋らしきものに触れたということだ。
朝倉の黒は既に決定的だ。小包装を持ち歩いているならば、朝倉自身も常習者の可能性が高い。そうと決まればあとは、取引現場か使用現場を抑えて撮影するだけだ。
玄関扉を開ける朝倉の背中を眺める俺の口角は、密かに弧を描いていた。
どうやら近いうちに芳しい結果を報告できそうだぜ、慎。
＊＊＊
食堂はまさに飽和状態で、鳴海と来た時に比べると格段に賑わっていた。こんなに広いのだから問題ないと思っていたのだが、予想外の混み具合だ。生徒たちの声が室内全体に反響して、ショッピングセンターのフードコートのような騒がしさである。
「こんなんで席取れんのか……？」
ぽつりと溢した呟きを、前を進む朝倉は耳ざとく聞きつけて振り返った。
「だいじょぶだいじょぶ、意外となんとかなるもんだよ」
そう言って親指を立てているが、その自信はどこから来るのか。俺たちの他にも席を求めてうろつく生徒はあちこちにいる。
ところが意外にも、席はすぐに見つかった。
「お、友成じゃん！」
「トモくん、今から夕飯なんだね」
「お前明日の課題忘れんなよ！」
朝倉が通りかかると、あちこちのテーブルから親しげに声が掛かる。朝倉は一つ一つに笑顔で対応していた。
そしてその中の一人が、こちらに向かって手招きをしていた。
「朝倉くん、こちらの席へいらっしゃい。空いていますよ」
朝倉の知り合いらしいその人たちは、ちょうど席を立つらしく、それを譲ってくれた。
声をかけてきたのは、長身ですらりとした、恐ろしいほどの美形男。華やかでやたら目立っていて、慎とはまた別ベクトルの美しさだ。朝倉のような人間とはあまり関わりがなさそうだが、密売会のお得意様か？ と早速下種な推測をする。
「あ、逆巻先輩。用事はもう済んだんですか？」
「大したことではありませんでしたからね。今日は急に切り上げでしまってすまないことをしました」
「いやいや、俺としてはむしろラッキーっていうか」
「おや」
「…………なんでもないでーす。えへへ」
朝倉の口ぶりからして、どうやら三年生らしい。確かに年上らしい貫禄を感じる。
後ろから、じっとその男を観察していると、ふと目があった。逆巻と呼ばれた男は、柔和な笑みを浮かべる。
「ふふ、隣のかわいい小鳥ちゃんは朝倉くんのお友達でしょうか」
小鳥ちゃんて。
今、小鳥ちゃんって言ったぞ、この人。
頰の引き攣りが隠せない。横で朝倉がげんなりとした顔で首を振っているのが見えた。
久しぶりに普通っぽい人だと思ったのに、癖強すぎだろ。
「ま、まあ、そんな感じです。同室の柊っていいます」
「では君が、噂の転入生というわけですね。朝倉くんとは部活を共にしている、演劇部の逆巻です。以後お見知り置きを、カナリアちゃん」
俺は鳥というよりは犬だと思うだが。……いやいや、そんなことはどうでもいい。
しかし、こんなマンガのキャラのような典型的な演劇部員が存在するとは。一見常識的だったのに、話し始めると背景に薔薇が咲き出す気がする。
そもそも、この学校に来て常識人を期待した方が間違っていたのかもしれない。保健室にはヤリチン、歩けばビッチに声を掛けられ、ルームメイトはヤク中(推定)の売人。ここまで、ほぼろくな人間と知り合っていない。
「どうも、逆巻センパイ」
先輩、と口馴染みしない言葉を舌先で確かめていると、逆巻は目を細めて頷いた。
逆巻はまだ朝倉と会話を続けようとする気配があったが、連れの男に呼ばれてテーブルの上を片付け始めた。
「もっと話したかったのだけれど、残念だ。次にあった時はぜひ一緒にティータイムを楽しみたいものですね、カナリアちゃん」
そして逆巻は、明日の部活について朝倉に言伝をしてから去っていった。
逆巻の使っていたテーブルは、人がつい先ほどまで使っていたという痕跡が見受けられないほど、綺麗に整えられていた。几帳面な性格らしい。
「変な先輩だな」
つい素直な感想が出てしまった。しかし朝倉は否定するどころか激しく頷いた。譲られたテーブルに突っ伏して溜息をこぼす。
「変人なだけならまだいいよ。ほんと横暴だからね、あの人は」
「横暴？」
「スイッチ入ると変わるから。部活中はマジで鬼畜だよ」
「日常的にやばいスイッチ入ってそうだけどな」
そこまで聞いて、ふと朝倉が部屋に帰ってきたときのことが思い起こされた。あの逆巻という男が部長であるらしい。
それを皮切りに愚痴が溢れ出てきた朝倉を、相槌で軽くあしらいながら、タブレット端末で夕食を注文する。特に食べたいものはないんだが。無難に日替わり定食でもいいけれど、今日のメニューは生姜焼きらしい。昨日はハンバーグだったので、今日は肉以外のものがいい。
「でさぁ……って、まふちゃん話聞いてる？」
「あ？ お前は何にすんの？」
「聞いてないでしょぉ！ もう、ご飯のことしか考えなかったよね！？」
「いやいや聞いてるって。……俺はオムライスにするか」
「やっぱり聞いてないじゃーん！ 俺は麻婆豆腐ね！」
「ん、了解」
タブレットを操作して注文を完了する。その間。聞いているだの聞いていないだの部長がサドだのと休む間も無く喋り通していた朝倉。
無論、俺も本当はちゃんと聞いている。朝倉のどんな些細な発言が、背後の闇につながる手がかりになるかもわからない。とは言っても、向こうも全くと言っていいほど隙がないので、うっかりアレグロのことを失言してくれたり、なんてことはなさそうだが。
「お前、顔に似合わず辛いもの食うんだな」
適当に話を振ると、食い気味に「好きだよ！」と返された。
「唐辛子とかスパイスとかねぇ、たまんなく好き。最近気になるのはキムチ鍋だね」
「あー、鍋。寒いし、いいよな」
「うん、冬の醍醐味だもんね。でも残念ながら食堂のメニューにはないし、俺も鍋セットは持ってないんだよねぇ……」
朝倉は、聞いてもいないキムチ鍋計画をあれこれと語り出す。そもそも鍋セットを持参しても、朝倉が計画しているとんでもなく辛そうな鍋パーティに付き合いきれる猛者はなかなかいない気がする。
本当に顔に似合わない。お花畑みたいな喋り方とゆるふわパーマかつボケボケな頭をしておきなら、キムチだ鍋だとは。「好きなものはいちごで〜す」みたいな顔をしておきながら、なかなかの裏切りである。
そうこうして談笑を続けているうちに、机の上のタブレットが、テーブルを振動させながらアラーム音を鳴らした。俺が席を立とうとするのを、一足早く立ち上がった朝倉が制する。
「混んでる食堂は慣れてないと大変だから、ここは俺にお任せ、ね？」
にっこりと笑って胸を張る朝倉。どうやら気遣ってくれているらしかった。
上げかけた腰を下ろし、座り直して頷いた。
「じゃあ、頼むわ。……さんきゅ、トモ」
「うん！ トモちゃんにお任せ〜！」
軽い足取りで人混みの中へと消えて行く朝倉を見送りながら、俺は口の中に残った名前の形を確かめていた。トモ。……うっかりすると朝倉、と呼んでしまいそうだ。茶番を演じきるのはなかなかに難しい。
――その時、突然一際強く視線を感じた。
先程から見られているのは分かっていた。転入生であるうえに、交友関係の広い朝倉と一緒にいれば、注目を浴びるのは不思議ではない。だが、そういった浅い興味のそれとは違う、もっと別の類の視線が、俺をじっと見ている気がした。
ふと思い立って、顔を上げる。二階のテラス席の、柱の影。昨日、鳴海が死角だと言っていたのを思い出したからだ。しかし死角は見えないから死角と言うのであって、残念ながらこちらからはそこに誰がいるかは特定できない。
……まあ、いいか。視線なんて気にしたら負けだ。こんな人混みの中で視線の主を探すなんて不可能だ。俺は勘のいい犬ではあるが、あいにく探偵ではないのである。
――っていう適当な結論づけが、翌日すぐに仇となって返ってくると、誰が予想するというのか？ 俺は微塵も予想していなかった。
「おまたせ〜！ 食べよ、まふちゃん！」
ちなみにこのオムライス、鳴海が美味しそうに食べていた割には、ケチャップライスがパサついていてあまり美味しくはなかった。
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