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 膝を抱えて完全に丸くなってしまった七海さんを、僕は凝視した。  唇が震える。  七海さんの、耳を疑う言葉に僕の心臓が激しく脈打ち始めた。 「え……っ?」 「初めて? 七海、初めてだったのか? もしかして、……こいつが?」 「うん……」  僕と九条さんが同時に身を乗り出すと、七海さんは耳を赤らめて僅かに髪を揺らした。 「っ七海、さん……ほ、本当なの……っ?」  嘘でしょ、七海さん……!  丸くなった背中に触れようとしてやめた僕は、もう一度小さく頷いた七海さんを信じられない思いで見詰めた。  ……それが本当なら、僕は償いきれない罪を犯し、……純粋なる一人の人間の心と体を……汚した。  「恋」をして、ドキドキする毎日を過ごし、この人ならと決意するまで守ってきた貞操を、僕が無残にも奪い取ってしまった。  七海さんは経験豊富だと勘違いしたまま、勝手に嫉妬し、勝手に手中に収めたいと狼狽し、独りよがりに七海さんを傷付けた。  ───だから……だからあんなに怒っていたんだ。  大事にしてきた「初めて」を、好きでもない僕に奪われたから。  だから……。 「……あの噂、半分以上デタラメじゃねぇか」 「俺が悪いから……そんな噂流されるような事してきたのも事実、だし……」 「………………」 「………………」  七海さん、……七海さんは何も悪くない。  噂は本当に、ただの噂だったんだ。  よく分からない大きな間違いと共に流れていた、単なる噂。  こんなに純粋な気持ちを持った七海さんが、男漁りなんてするはずがない。  理由を聞いてやっと腑に落ちた。  苦手な場にも関わらず、七海さんは悲観しつつ合コンに参加していたんだ。  出会いを求める反面、好きになってくれる人や、七海さん自身が「好きだ」と思える人はこの中には居ないと諦めていたから、あんなにも切ない愛想笑いを浮かべていた──。 「七海さん……」  好きな人に出会ってみたい、恋をしてみたい、毎日が輝くという経験をしてみたい……そんな、清らかに「恋」を夢描いていた七海さんの気持ちを踏みにじった僕を許せないのは、当然だよ……。 「七海、信じらんねぇかもしれないけど、何もしないって誓うから俺ん家泊まれ。 こいつとは別にガチのストーカーが居るんなら、ここに住むのは危険過ぎる」 「え……」 「こいつを毛嫌いしてた理由も分かったしな。 そりゃ許せねぇよ。 俺だって」 「…………九条君……」  ここに居るのは危険だと九条さんも分かってくれたみたいだけど、その提案に僕の口角は引き攣った。  どうやら九条さんは、告白した後にキスを迫ったらしいから、何もしないと言われても信じられないのか顔を上げた七海さんもひどく困惑している。  黙っていると、九条さんがふと僕を見た。 「運転手様がお待ちだぞ。 お前は早く帰れ」 「で、でも僕は……」 「七海が怒ってる。 悲しんでる。 嫌がってるっつーより、七海はお前の事が許せねぇんだよ。 言ってる意味は分かるよな?」 「………………」  分かってる、分かってるよ……!  僕が全部いけなかった。  七海さんの事を誤解したまま何もかもを自分本位に進めて、振り向いてくれるはずなんかないのに諦めない意思ばかり強くして。  謝っても謝っても、七海さんはきっと許してくれない。  キスをし慣れていない、体調が万全ではない七海さんを僕の家で抱くのは、さすがによくないと思って自制していた事だけが救いだ。  早くよくなってほしい。  七海さんが元気になったら、それから僕もエンジンを掛けよう、そう決めていたから。  ───事情が変わり、予定が大幅に狂ってしまったけれど。 「……七海さんの事は九条さんに任せます。 僕が口を出せる状況じゃなくなりました。 行ってほしくないけど、……僕は何も言えない。 言うべきじゃない……」  僕は七海さんの顔を見る事が出来なかった。  隣から視線を感じたけれど、今までどうやってその瞳を見詰め返せていたのか分からない。  初めてを奪ってしまったその人に、僕は初めて恋をしていたんだと……今さら気付いて下唇を噛んだ。

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