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 いつものように伊達眼鏡を掛けて、マスクをする。  目は悪くない。 風邪も引いていない。  次第に身分がバレていってしまうまで、僕はひっそりと大学生活を送ろうとしていた。  まだ一年と四ヶ月ほどしか経っていないから、今年いっぱいは穏やかに過ごせるはずだ。  あれから三日が経ち、七海さんはどうしているかと気にしながら週末を迎えている。  アプリを開けば七海さんの居所はすぐに掴めるけれど、九条さんの自宅を行き来するのは見たくなくてそれは開いていない。  それに、僕がこれ以上追い掛けたら七海さんの心の傷が深くなる。  噂なんてとんでもない。  あんなに純粋な子がこの世に居るのかと驚いた。  恋をしてみたかっただなんて、……あれも一種の魔性だ。  あんな事を言われたら、男なら誰でもキュンとする。  そんな初々しい心と体を奪ってしまった僕の後悔は、どこまでも深い。  七海さんが受けた傷口より浅い事が悔やまれる。  毎晩、僕のベッドで寝ていた七海さんの寝顔を思い出しては拳を握った。  なんで裏取りしなかったんだろう。  興味本位だったとは言え、簡単に信じていい噂ではなかったのに。  どうして僕は七海さんを汚してしまったの。  恋をした、と気付くのが遅過ぎた。  僕の心に密かに潜んでいた、猛烈な独占欲に支配されて七海さんを傷付けてしまった事を後悔しても、もう遅い。  忘れなければいけない。  これ以上七海さんを追い掛けたら、本当にあのストーカー男と一緒くたになってしまう。  「恋」を知った僕は、相手の気持ちを考えずに行動する事の罪深さも同時に知った。  大人達がしている愛想笑いの本当の意味も、知った。  身勝手な思い込みに振り回されていては、過ちを繰り返すだけ。  学部の違う七海さんとはそうそう講義も被らない。  だから僕は、七海さんへの贖罪の気持ちを一生持ち続けて、七海さんが隣に居ない毎日を生きていく。  ───穏やかに、自責の念を持ち続けて、一生。 「本日は本社勤務ではなく、荒川ホテルにて十八時より桂木産業様との立食パーティーがございます。 スーツ持参にてお迎えに上がります」 「あぁ、…そっか、金曜日か。 分かったよ」 「それでは和彦様、行ってらっしゃいませ」 「うん。 行ってきます」  今日も、いつもと変わらない一日が始まる。  午前午後にバラけさせた講義を受けて、夕方から夜遅くまで拘束される苦手なパーティーを、得意の上辺だけでこなす。  あの場こそ愛想笑いがひしめき合っていて、それが必要悪だと分かった上でも、僕はどうしても好きになれない。  父親の付き合いでこれまで幾度となく参加してきたけれど、この先何年経っても慣れる事なんて出来なさそうだ。 「おっす。 和彦は真面目だな、毎日朝から講義取って」  一限目を終えた僕は、次の講義までの時間を構内のカフェでコーヒーを飲みながら潰していると、占部さんが重たそうなリュックを抱えてやって来た。 「あ、おはよう、占部さん。 何も考えずに学んでいられるのも今のうちだからね。 それに、基礎入れておかないと父から何と言われるか」 「そうだな。 卒業したらすぐ本社勤務って事だろ?」 「えぇ、まぁ。 この四年ですべての課を経験して、すぐに……」 「入社と同時に役職か」 「そうなんだけど、僕は世襲なんて時代遅れだと思ってる」 「いやいや、それが大企業の常だ。 俺が和彦だったら、周りに言いふらして跪かせるけどな」  僕の向かいの椅子にリュックを置いた占部さんは、軽い調子で笑ってコーヒーの注文に行った。  戻ってくると、朝食も兼ねてなのかトーストとサラダもトレイにのせている。  入学してすぐに声を掛けてきた占部さんは、自身も重役候補の父親を持つ身だからか僕を特別扱いする事がないので、とても話しやすい。  正直に「歳下だけど和彦は敬語じゃなくていい、俺もそうするから」と言ってくれた事も嬉しかった。 「占部さんもその大企業の部長さんの息子じゃない。 成績優秀だし、コネ無くても本社勤務確定でしょ。 跪かせるだけの後ろ盾も、実力も、持ってるよ」 「身分隠してる和彦に言われると、俺が軽率人間に思えてならねぇな」 「確かに。 跪かせる、は軽率発言だね」 「ははっ…。 そういや、あれから芝浦七海とはどうなったんだ?」 「………………」  占部さんとの会話に気が緩み、ふふ、と笑っていた僕の体が固まる。  名前を聞いただけでドキドキしてきた。  心を落ち着かせるためにコーヒーを手に取り視線を彷徨わせていると、占部さんが「お、」とトーストにやりかけていた手を止めた。 「噂をすれば…」  え………?  自販機の方へ視線をやった占部さんを見た僕は、恐る恐る振り返ってみる。  そこには、「ない!」と小さく声を荒げている七海さんが自販機の前で何かと格闘していた。  小さな体を揺らし、幼い子どもみたいに地団駄を踏む姿が周囲の視線を誘っている。 「あーもう、十円足りないっ。 昨日溝に転がってったアイツが居たら足りたのにーっ」  山本さんや、友人が周りに居ないらしい。  誰にも声を掛けずに、下唇を出していじけた七海さんが自販機から離れていく。

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