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接近者 ─和彦─
ちょっと…刺激が強過ぎたかな。
耳から首元、果てはTシャツから伸びる華奢な腕までをも真っ赤に染めてカチコチになってしまった七海さんの肩を抱いていると、このままずっとこうしていたいとワガママな気持ちが湧いてくる。
七海さんが無意識に放った、『ポイッて捨てたんだろ!』という悲痛な叫びがずっと頭の中でリピートされていたから、そんな事ないよ、と安心させてあげたかった。
可愛いよね…。
なんであんな事したんだ、って怒るならまだしも、七海さんはそう憤りながらも僕の事が忘れられなかったんだ。
純真過ぎるが故に悩み苦しんでいる、そんな七海さんの気持ちを思うと切なくてたまらない。
急かしはしないけれど、一日も早く本当の気持ちに気付く日がくるといいな。
苛立ちと共に湧いた別の感情を、七海さんの思い丸ごと僕にぶつけてほしい。
七海さんが僕に教えてくれた狂おしいほどの「恋」というものを、七海さんにも知ってほしいと思った。
僕が囁いた言葉で、少しずつでも好かれている喜びを感じ取ってほしい。
まだ受け止めきれない事は分かっている。
だから、少しずつ、少しずつ、僕に染まってくれればいい。
「もうこんな時間だ。 ご飯食べましょうか。 お腹空いてるでしょう?」
腕時計を確認すると、すでに二十時半を過ぎてしまっていた。
おとなしくなった七海さんにそう問うと、色付いたほっぺたを隠すように窓の外を見ている。
「あー…食べたいんだけど俺今からバイトなんだよ」
「えっ!? 今からですか!?」
「そう。 二十二時から五時まで。 だから向こうで何か買って食べよ……」
「ま、待ってください。 コンビニのバイトって、深夜帯だったんですか!?」
そんな…っ。
バイトしてるのは調べてもらった個人情報で知っていたけど、深夜に働いてるなんて知らなかった。
調べが甘い。 明確に記載してもらわないと困るよ。
だって心配じゃない……深夜に働いているだなんて…。
「そうだよ。 もう四年目」
「……! 辞めるわけにはいかないんですか」
「無理だな。 ちょうどいいんだよ、大学と両立しながら働くには。 月の給料も週三とか週四のわりにはまぁまぁだし」
「…………………」
お給料の話をされると何も言えない。
週の半分なら勉強にも負担がないって、こっちに来てからずっとその生活をしていた七海さんが言うなら、無理はしていないのかもしれないけど…。
七海さんも自身の腕時計で時間を確認すると、あっさりと僕から離れて鞄をゴソゴソし始めた。
「学費は父さんが払ってくれてるから、せめて生活費は自分で何とかするって言っちゃったんだ、俺。 この生活もあと半年くらいだけどな」
「………なんて頑張り屋さんなの…」
「頑張り屋さんって。 普通だろ。 俺より頑張ってる人たくさん居ると思うけど」
そうかもしれない、そうかもしれないけど、七海さんがこれまで一人で健気に頑張ってきたと思うと、僕にはその姿が殊更眩しく映った。
けれど七海さんには大した事のない、普通の事なんだよね。
親元から離れて、バイトしながら大学にもちゃんと通って、決められたお給料の範囲内で生活して。
……頑張り屋さんって言葉しか思い付かなかった。
僕は分からないから。
一般的じゃない家庭環境と、人並みじゃない僕が七海さんの苦労を理解してあげられるわけない。
せめて……残りの大学生活だけでも、何不自由なく勉強に専念できるようにしてあげたいな…。
スマホと財布をポケットにしまって、すでに出掛ける気満々の七海さんの腕を取った。
「今すぐ辞めてほしいって言っても、聞いてくれないですよね」
「うん。 聞かない」
「……じゃあ…送迎させてください」
「え!? 嫌だよ、そんな事させられない。 後藤さんにも迷惑だし」
「後藤さんじゃなくて、僕が送り迎えします。 僕も一応免許はあるんですよ」
「……なんでそこまですんの?」
「七海さんの事が好きだから」
「すっ……! あ、あのな、俺は今までこの生活してたんだし、マジで迷惑かけたくないから。 終わんの朝五時だよ、話聞いてた?」
妥協するのは、七海さんの事が好きで、大切だからだ。
強引に事を進めても七海さんは喜ばないって分かったから、僕に出来る最低限の譲歩。
七海さんの負担を少しでも軽くしてあげたい。
その一心での僕の告白に、ピク、と体を強張らせて戸惑いの色を見せた七海さんを引き寄せ、足の間に立たせた。
「聞いてましたよ。 ……心配なんです。 深夜帯のバイトだなんて知らなかったし…」
「心配してくれなくていいっ。 こんなお城に住まわせてくれるだけでありがたいんだから。 バスの時間とか調べたいし、も、もう俺行くよ」
「………行かないで」
「ちょっ…!」
「七海さん。 ……辞められないのなら、せめて送らせてください。 迎えに行かせてください」
行ってしまおうとした七海さんを、僕は立ち上がって抱き締めた。
簡単に離れて行こうとするなんて、つれない。
本音は、すぐにでも辞めてほしいのに。
何の躊躇もなく、裏から手を回して辞めさせるように仕向ける事だって僕は容易くしてしまうのに。
僕の譲歩は七海さんのためなんだよ。
個人情報で知った七海さんの家庭環境を鑑みれば、僕の勝手を押し通す事も出来なかった。
力を込めてぎゅっと抱き締めると、逃げる素振りのない七海さんは僕の腕の中でフッと笑う。
「……もう、嫌って言っても無駄っぽいな」
「はい。 本当は今すぐにでも辞めてほしいんですが、七海さんを尊重します。 お父様との約束なんでしょう? 自活するというのが」
「…………うん」
「それならば仕方がないです。 僕がワガママを押し付けてはいけない」
「……うわ…和彦が引いた……」
「七海さんの事を想えばこそです。 以前の僕とは違います。 僕は恋をしていますから、…七海さんに」
見上げてきた七海さんの表情は、驚く、というより絶句に近かった。
……そんなに意外だったのかな。
深夜に働かせるだなんて、本当はすごくすごく嫌だけど…七海さんにも事情があると許容しただけ。
何かあったらすぐにでも辞めさせるつもりだけれど、それは言わないでおいた。
「………恋、ね…」
「分からない」顔で可愛く呟いた七海さんに、理解ある男だってところを見せたかった…なんて、僕はいつからこんなに言葉を選ぶようになったんだろう。
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