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 昨夜途中で寝てしまった七海さんは、やはり話の内容をほとんど覚えていなかった。  後藤さんの運転する車内でもう一度同じ事を説明していると、案じていたバイトのところで七海さんがプンプンし始め、とたとたと両足を動かして怒りを表している。  朝から大好きな七海さんとセックス出来てご機嫌な僕とは、かなりの温度差だ。 「なんで勝手に辞めますなんて言ったんだよ! 俺三年以上働いてんだよっ? 店長が「はいそうですか」って簡単に頷くはずない!」 「きちんと理由を説明したら納得してくださいましたよ。 人員不足だと仰っていたので、さっきも言った通り二名新たに派遣しましたし」 「そういう問題じゃない! どうして一言相談してくれなかったんだよ!」 「七海さんの事が心配だからです。 すぐに動かなければ、いつまたストーカー被害に遭うか分からないじゃないですか。 悪い芽は早めに摘んでおくに限ります。 あらゆる危機を想定して動いたまでです」 「だからってなぁ…!」  目尻をキッと上げて、僕に食ってかかる七海さんはとびっきり可愛い。  どうも僕は、出会った頃から七海さんの怒った顔と声に無性にドキドキする質らしい。  感情を剥き出しにしてくれる事が嬉しくて、それが普段はおとなしい七海さんだというだけで頬が緩む。  抑えきれなくて、怒っている七海さんに向かってニコニコしてしまうからさらに火に油を注いでしまうんだけれど、とても神妙になんて出来ない。  だって可愛いんだもん…。  こんなに可愛くて尊い七海さんが、僕だけのものなんだよ?  怒られても呆れられても、そんなのどうって事はない。 むしろ嬉しくて舞い上がってしまう。 「七海さんの魔性の火の粉はあちこちに飛んでいます。 何しろ人数が多いですから、僕が完全に鎮火させるまでもう少しかかるんですよ。 お願いですから、僕の傍から離れないようにしていて下さい」 「…………ふんっ」 「怒ってる七海さん…可愛い」 「可愛くない! 怒ってる相手に向かって言っても無駄だぞ!」 「眠そうな七海さんも、ご飯食べてる七海さんも、何も考えていない顔でただ歩いてるだけの七海さんも、こうしてプンスカ怒ってる七海さんも、すべてが可愛く見えます」 「なっ…! お、おかしいんじゃないの!?」 「えぇ、僕はおかしいですよ。 それは七海さんが一番よく分かってる事でしょ?」 「…ぐぬぬ…っっ」  あ、今度は唇をへの字にして不貞腐れた。  重そうなリュックを両手で抱っこして、ちんまりと僕の隣に腰掛けている七海さんは、表情豊かで見ていて本当に楽しい。  心が洗われる。  恥ずかしいからと僕の膝に乗ってくれなかった事の文句は言わなかったんだから、せめて手くらい繋ぎたいのにな。  黙り込んで不貞腐れた七海さんは、数分置きにチラチラと僕を伺ってくる。  今なら出来そうだと、リュックを握る手を取って僕の膝の上に置き、指を絡ませた。 「…………っ!」 「真夏に長袖着させてごめんなさい」 「…………っ!」  手首の痣を隠すために、七海さんはこの暑い中淡い水色のワイシャツを羽織っている。  痣はほんのわずかだけれど、他人の目に触れれば必ず「どうしたの」って聞かれるだろうから、七海さんは「暑い」と呟いても脱ぐ事はしない。  ───もしも他人に長袖の理由を聞かれたら、何て答えるつもりなんだろう。  今よりもっと顔を赤らめて、分かりやすくあたふたする姿が目に浮かんで……萌えた。  これは、二人だけの秘密事って感じで素敵だ。 とても、素敵。  ごめんなさいと言いながら、そうしなければならない状況を僕が作ったんだという悦楽に浸るなんて、自分の癖が分からなくなってきた。 「───行ってらっしゃいませ。 和彦様、七海様」 「行ってきます」 「行ってきますっ」  どこか嬉しそうな後藤さんに見送られて、僕達はまず構内のカフェに向かった。  一限前にコーヒーを飲みたいと言った僕に、離れないでと言わなくても七海さんは付き合ってくれている。  未だプンプンしているけれど、怒っているのに僕の隣にぴたりと寄り添って歩いていて、人前でも構わず撫で回したい衝動に駆られた。  僕の左隣、目線よりちょっと下で明るい髪がふわふわ揺れているのは、また萌えだ。  意識を逸らそうと前を見据えてみれば、周囲の名も知らない生徒達が、僕ら二人を驚きに満ちた顔ですれ違いざまに次々と見て行く。 「七海さん、そんなに可愛い顔してるとまた魔性が……」  店員さんにコーヒーを二杯頼み、小声で耳打ちすると大きな瞳が僕を見上げた。 「可愛くないっ、俺は怒ってんの! もう〜バイト辞めたなんて困るよー…。 どうやって生活したらいいんだよ〜っ」  そそくさとテーブル席に移動した七海さんは、わっと両手で顔を覆った。  可愛いなぁ…とその様子を見詰めて、コーヒーを啜る。 …ん…? 今日のはいつもと少しだけ風味が違う。 「ねぇ七海さん。 僕の家に居る限り、本当はバイトはしなくていいんですよ?」 「でも父さんに言えるはずないだろっ。 お金持ちのお坊ちゃまが俺を飼い殺そうとしてるからバイト辞めたんだ〜、なんて…」  指の隙間から僕をチラと伺い、小声でそんな事を言うからついコーヒーを飲む手が止まった。 「飼い殺し………」 「あ、いや、今のはただの表現な、言い方悪かった。 ごめ…」  いい。 それ、すごくいいアイデアじゃない。  僕のお嫁さんになってずっとお家に居てくれたらいいなって常々思ってはいたけれど、七海さんは断固拒否するだろうし、何かいい方法ないかなと考えていたところだ。  名案だと思った僕は、嬉々として七海さんの分のコーヒーを渡した。   「いいですね、飼い殺し。 七海さん、僕に飼い殺されてみません?」 「───みません!!」 「……糠喜びさせないで下さいよ…。 本当、小悪魔ちゃんなんだから…」 「糠喜びってなんだ! 言葉の綾だっての! てか小悪魔ちゃんって言うなよ、恥ずかしいから…っ」  なんだ…自分で言うくらいだから、少しはその気があるのかなって期待したのに。  でもまぁ、いつかそうなるように懐柔していけばいいかな。  大好きな大好きな七海さんは、ずっと僕の傍に居ないといけないんだから、時間を掛ければそれは簡単な事だ。 「朝からヒソヒソ声でイチャつくな、バカップル」  ふふ、と機嫌良くほくそ笑んだ僕の肩に、ずしっと重たい男性の腕が絡んできて、すぐに笑みを消す。

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