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 大きな口を叩けなくなった。  あれだけ自分で「今日はやらない」って豪語してたのに、気が付いたら和彦の策に溺れて悦楽に酔っていた。  素肌と吐息が触れ合い、耳馴染みの良い甘い声で名前を呼ばれるとどうしようもなく腰が疼く。  夢見ていた普通の恋とはかけ離れてるけど、腕枕の中で何度もこめかみにキスされて「好きです」と囁かれてしまうと……もう拒めない。  寝惚けたフリで手のひらを握り合って、恋人繋ぎして、片時も離さないとでも言うように抱き締められて、全身に温かさを感じながらフカフカの大きなベッドで眠る。  和彦はこんなにも想いを伝えてくれているのに、まだどこか付き合っている感覚が宙ぶらりんなのは、俺が気持ちを伝えてないからだ。  恥ずかしくて自分の気持ちは伝えられないくせに、我を忘れてとんでもない台詞はポンポン浮かんで口走る。  「挿れて」とは言えるのに、「好き」が言えない。  どういう事なんだよって話だ。  ドキドキして、モヤモヤして、ぐるぐるして、頭の中は和彦でいっぱいなのに、なかなかその一言を口に出来ない。  ───恋って、……難しい。 「───えっ!? 和彦のお父さんの会社!?」 「そうです。 僕は大学卒業まで派遣社員としてすべての課を回って、粗方の仕事内容の把握を父から命じられました。 世襲なんて時代遅れだと思っていますし、僕が会社を継ぐという認識では働いていませんが」  講義終わり、後藤さんの車に和彦と乗り込んだ俺はこれから新しい職場に初出勤する。  それが和彦のお父さんの会社だという事を今知った俺は、目が点になった。  和彦の両親は、ここしばらく週末にも帰宅していないから俺はまだ会った事がない。  会っても気まずいだけだからまぁそこはいいとして、そんな話を聞かされると和彦はほんとにお坊ちゃまなんだなと急にそれが現実味を帯びてくる。 「和彦様、配属課の件でお話が」 「うん? どうしたの」  後藤さんがルームミラー越しに和彦を伺う。  テディベアを全力で回避した結果、和彦は俺と手を繋ぐ事で妥協した。  少しばかり言いにくそうに言葉を濁す後藤さんの話を聞いてるうちに、握っていた手のひらに徐々に力がこもっていく。 「え……僕と七海さんは同じ課にと伝えておいたはずですが」 「営業一課で欠員が出てしまい、和彦様はそちらに派遣される事に。 その方はご病気で二週間の有休を使われるそうです」 「そんなぁ……」  和彦は分かりやすく表情を曇らせた。  せっかく同じ職場で働けるなら、そりゃあ和彦が傍に居てくれた方が心強い。  でも病欠で人員不足なら、仕方ない。 足りない人手を補って仕事を円滑に回すのが「派遣社員」。  その欠員の穴に身分を隠してる和彦が抜擢されたのなら、それは今までの仕事ぶりを評価してもらえてる証拠なんじゃないのかな。  世襲は時代遅れだなんて言ってる本人に、その自覚は無いんだろうけど。  黙って聞いてた俺は、和彦の横顔を見てから手をギュッと握り返した。 「俺は何課で働くんですか?」 「七海様は経理課でございます」 「経理課か……俺でも出来る仕事かな……」  コンビニでしか働いた経験がない俺は、バイトとはいえそんなに大きな会社で働くなんて気が引けた。  和彦を見上げて不安を吐露すると、不意打ちにふわっと微笑まれてドキッとする。 「短時間バイトなので、そこまで大きな仕事はありません。 経理課で最初に任されるのは恐らく表計算ソフトに数字を打ち込んでいく仕事です。 エクセルが使えれば大丈夫かと」 「それなら出来そう。 テンキーならキーボード見なくても打てるよ」 「それは頼もしいです。 最初はじっくり時間を掛けて構いませんからね」 「ん、分かった」 「社員さんから少しでも嫌な事言われたり、されたりしたら、すぐに報告してくださいね。 魔性も無闇に振り撒いてはダメですよ。 ……あぁもうっ、心配だなぁ。 僕もてっきり同じ課に行けるものと……!」  今聞いた内容なら、俺にも出来そうな仕事で安堵した。  恋人繋ぎした俺の手の甲を擦って騒ぐ世間知らずのお坊ちゃまより、俺は落ち着いている。  とにかく、会社がデカいとか大企業だとか考えないで、与えられた仕事をきっちりこなしていけばいいよな。 「仕方ありません。 ですが和彦様。 七海様は和彦様が社会に出るよりもっと前から、世に出て働いておられました。 何も心配は要りません。 この後藤は、和彦様の初出社の方がヒヤヒヤいたしましたよ」 「あぁ……それを言われると何も言えないよ」 「なになに? 後藤さん、何でヒヤヒヤしたんですか?」 「それはですね……」 「七海さん、時間です。 行きましょう」 「えーっ。 あと三分だけ! 後藤さんの話聞いてからでも……」  知り合って三ヶ月、しかも和彦とこんな関係になってしまった俺の事を、後藤さんは広過ぎる心で受け入れてくれている。  幼い頃から和彦を見守ってきた後藤さんだからこそ知り得る情報を、俺も聞いてみたかったのに。  地下駐車場で停まった車のドアを開けて、繋いでいた手をグイと引っ張られた俺は降車を余儀なくされた。  俺には聞かれたくなかったのか、話の腰を折った和彦に向かって後藤さんは、「行ってらっしゃいませ」と見送ってくれながらもクスクス笑っていた。 「近頃七海さんが知りたくてウズウズしていることは、もう少し経てばお教えします。 今はまだ秘密です」  歩き始めた和彦の隣に並んで、その横顔を見上げる。  大学内でもそうしてたみたいに、和彦は鞄からメガネケースを取り出して、掛けた。  どうして和彦は他人が嫌いなのか。  確かに気にはなってるけど、ウズウズしてるとこなんて俺は見せてない。  人の気持ちを読むのが苦手だと言ってたのに、俺の気持ちも、考えてる事も、全部分かってるような顔をする。  和彦に連れられて地下からエレベーターに乗り、眼鏡を掛けると一気に近寄りがたさが増した横顔を凝視した。 「もったいぶるなぁ……」 「小出しにしていかないと、七海さんが僕に幻滅したら嫌ですからね。 幻滅されたところで、今さらもう離してあげられませんけど」 「幻滅するような事なのか?」 「……僕が話すまでもなく、七海さんはすでに分かっているかと。 僕の短所をリストアップしていた時、さらりと口に出していましたから」  そう言うと和彦は、降り立ったエレベーター前で俺を待たせて社員証を貰いに受付へと寄って行く。  和彦が声を掛けると、どちらが和彦の対応をするかという小さな争奪戦が、受付嬢二名の間で繰り広げられた。  ───その様子を見詰めている和彦の瞳は、やっぱり冷めていた。

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