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 別の講義室で授業を受けている七海さんを思い浮かべては、うっとりと瞳を瞑ってしまう。  瞼の裏に、元気に言い返してきたり照れて俯く様を思い起こしては幸せに浸った。  孤独で惨めで最低な事をした僕が、こんなにも幸福感を感じられるなんて贅沢なんじゃないかと不安に駆られるほど、幸せだ。  弁舌を振るう教授の話が耳に入ってこなくなるから、あまり七海さんの事は考えないようにしているのに…。  握ったボールペンは全然動いていない。  ノートも写しかけのまま、半分も埋まっていない。  僕は自分の中の生真面目な脳に直接訴えかけた。  少しだけ、あとほんの少しだけ、七海さんから得られる幸福に浸らせて。  色々あって七海さんは今僕の自宅に居るから、毎日会って毎日幸せが積み重なれば、この初恋による燃え上がりそうな気持ちは徐々に落ち着いてくるはず。  他人を嫌う理由をも洗いざらい話してしまった事によって、七海さんへの恋の熱情が昨日の晩からさらに膨れ上がってしまった。  変わる事が怖くないのも、七海さんが傍に居てくれる安心感がそれを凌駕した。  恋は人を駄目にもするし、成長もさせてくれる。  七海さんも同じ気持ちだといい。  愛想笑いをしなくてよくなったのなら、本物の可愛い笑顔だけを毎日浮かべていてほしい。  誰よりも七海さんの事を一番に考えていたいから、二度と「初めて」の過ちは犯さないと誓う。  まだ出会ってすぐの僕達には時間が足りないよ。  これ以上夢中になったら困るのに、七海さんは離れていても僕を虜にして離さない。  ……正真正銘の小悪魔ちゃんだ。 「───今日はこれまで」  教授の声にハッとした。  瞳を瞑って七海さんへの思いを馳せていると、時間があっという間だった。  急いでノートや筆記用具を鞄にしまい、講義室を飛び出す。  七海さんを迎えに行かなくちゃいけない。  そして、お昼はもはや馴染みとなった食堂で、安くて美味しくてボリューム満点なご飯を大好きな七海さんと食べるんだ。 「七海さ……ん、?  ……何してるんだろう?」  生徒達の波の隙間から、すっかり見慣れたオレンジブラウンの髪が見え隠れしていて歩む速度を上げたんだけれど、七海さんは立ち止まったまま動いていなかった。  近付いてみると、講義室の隣の空き教室の壁に張り付いて、中の声を盗み聞きしているのだとすぐに分かる格好をしている。  七海探偵は洞察力には優れているけど、立ち聞きはちょっと下手くそだ。  全然隠れてないんだもん。  そっと近付いて、この空き教室が無人なのをいい事に後ろから抱き締めようとした僕の耳に、聞いちゃいけない会話が飛び込んできた。  おかけで僕も立ち止まって、上げかけた腕もそのままの状態で固まる。 「~~そうそう、佐倉くんって掴みどころがないからちょっと怖くない?」 「分かるー。  あれだけのハイスペックイケメンでも、愛想無さ過ぎるとちょっとねー」 「話し掛けるなオーラ出してるよね」  ───嫌だ。  僕の噂してる……というか、言い草が何だか悪口めいてる。  今まで僕はあえて他人を避けてきたから、無愛想だと思われていても仕方がない。  それに、こんな陰口のような会話は何度も耳にしていた僕には、「やっぱり言われちゃってたか」くらいにしか思わなかった。  そろりと七海さんの背後に接近して、ゆっくりと片手だけで腰を抱く。  ビクッと肩を揺らして見上げてきた七海さんは、僕に気付くと複雑な表情で見詰めてきて…それから体をすり寄せてきた。 「あ、ねぇねぇ。  高校の後輩が言ってたんだけど、佐倉くんってあのSAKURA産業の御曹司なんだって」 「それマジ!?」 「それで近寄るなオーラ出してるのかな?」 「聞いた話だと、中高ともぼっちだったらしいよ。  暗いのは昔からなんだって思っちゃった」 「へぇ〜可哀想〜。  愛想が無いから仲間に入れてもらえなかったんだね〜」 「会話してもらえないんじゃ、何考えてるのかも分かんないしねー」 「私らみたいな一般人とは話もしたくないんでしょ」 「えーそれ最低ー」 「性格悪ーい」  そんな……僕はどの人とも口を利かないようにしていただけなのに。  印象が悪いと、こんなにも憶測が深まってしまうんだ……。  すべては僕が周囲との関わりを断っていたせいなんだから、こんな事を言われてもショックを受けるというより、前に進もうとする自らのこれからを案じた。  僕も簡単に食い付いてしまった「噂」というものは、人から人へ回り回るうちにどんどんと尾ひれが付く事は身を持って体験している。  七海さんに真実を問う前に行動してしまった僕には、彼女達を咎める資格なんかない。 「…………あいつら……」  腰を抱いた七海さんの体が、指先で感じるほど硬くなった。  覗き込めば、小さく悪態をつく唇が震えている。  ……あ、……怒ってる。  幾度も怒らせた事のある僕も見た事がないくらい、七海さんが静かに憤っていた。 「……七海さん、いいんです。  行きましょ……」  中に居る彼女達に気付かれないよう、小声でそう言った僕は七海さんの腕を取って連れ出そうとしたんだけど、……遅かった。

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