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 この穏やかな時間が永遠に続けばいいのに…と、愛しい体を抱き締めながらまさに漫画の中みたいな事を思っていた僕の耳に、七海さんのお腹が空腹を知らせる鈍い音が届いた。  外は賑やかで、いつ誰がこの湿っぽい教室の扉をノックするか分からないドキドキの中、甘やかなムードが一変した僕達は同時に吹き出して、それから遅い昼食を取った。  僕は親子丼、七海さんはオムライス。  というか……七海さんはほぼ毎日オムライスを食べているから、飽きないの?と聞いてみた。  すると、「大好きなんだ」って屈託なく笑われて何だか僕も嬉しくなった。  好きなものは毎日食べても飽きないんだって。  そうか。  だから僕は七海さんと暮らしていけているんだな、と、美味しそうにスプーンを口に運ぶ横顔に見惚れて感慨深く思った。  むしろ毎日、いや常に一緒に居たいと思うから、あの家は一日も早く引き払おう。  七海さんが僕のそばを離れてしまう事のないように、ずっとそばに居られるように、荷物を運び出す手筈を整えなきゃ。  そうだな、……今週中には。  九条さんの助言通り、今日の仕事中はずっと松田さんに張り付くと言っていた七海さんが、息を切らして地下駐車場に帰って来た。  一足先に駐車場へ降りてきて父と電話をしていた僕は、会話の最中だったけどすぐに切って走ってきた七海さんを抱き締める。 「おかえりなさい!  お疲れ様です!」 「おい、こんなとこで……!  てか車乗っていいっ?  証拠掴んだ!」 「えっ!?  証拠!?」  慌てた様子で車に乗り込み、後藤さんと「お疲れ様です」を言い合った七海さんがちょっと興奮している。  驚くべき台詞に、僕も珍しく大きな声を上げた。  走り出した車内は、後藤さんの運転技術と高級車らしく滑らかな走行とで静音が保たれている。  驚きの中、七海さんが見せてくれた表示画面ですぐにその意味を理解した。 「そう!  仕事終わってからダメ元で中会議室に寄ってみたんだ。  そしたら中から声がして……ちょっとだけ録音しちゃった」 「中会議室って事はもしかして……不正疑惑の?」 「うん。  聞いてみて」  僕にスマホを持たせて、音量を操作した指先が再生マークを押す。  社内のトップシークレットが、雑音と共に再生された。 『───れで最後だ。  今回は少々多いがまぁうまくやってくれ』 『分かりました』 『こっちは資料室と給湯室の修繕費として上げるんだぞ。  額がデカイから勘繰られると面倒だ』 『改装費、でしょうか』 『あぁ。  俺が手配した業者はその半値だ。 意味分かるだろ』 『えぇ、……はい』 『しかしこうも派遣社員が多いと人件費ばかり無駄にしている気がするな。  近頃の社長のやり方は逃げに興じているようで情けない』 『………………』 『周りは社長に陶酔したイエスマンばかりだから見ていてイライラする。  俺だったらもっと会社そのものを有効に使うんだがな。  先義後利も程々にしておかないと足元をすくわれる…俺のような者からな』 『………………』  録られている事も知らないで、首謀者はさも楽しげにクックック…と笑っているところで録音は途切れた。 「………………」  ───これはまさしく、重要な証拠だ。  聞き覚えのある声と、不正の事実を語っている内容、そしてこれが最も大事な、僕の予感が的中した最悪の事実。  これだけはもう少し裏を取る必要があるけれど、いつからか巧妙な罠が仕掛けられ、父がその座から蹴落とされようとしている。  声の主、占部さんのお父様が不正にも絡んでいるかもしれないと、九条さんが推測を立てた瞬間に頭をよぎった信じたくない悪い予感。  嘘だ……と絶望しているどころではなくなった。  七海名探偵が、疑いようのない証拠を持って帰ってきたんだ。  これは急いでセクハラの裏も取って、同時解決するしかない。  今日こそ本当の作戦会議が必要だ。 「この声ってさ、もしかして……」 「……占部さんのお父様です」 「マジか……。  九条君の推理あたってたんだ。  俺の下手くそな説明だけで……すごいな九条君……」 「……九条さんがすごいのは認めますが、僕の前で他の男を褒めないで頂けますか。  ここがギューッて苦しくなるので」 「えっ、あ、……!  ごめん……っ」  眉を顰めて胸元を押さえて見せると、悪いと思ったのか七海さんが慌てて僕の手を捕まえて握った。  ……許してあげます。  七海さんから手を繋いでくれるなんて初めてだから、ヤキモチを焼いた僕の心も瞬時に痛みから解放される。  嫌だ。  もっと僕もしっかりとしたデキる男になって、七海さんに認めてもらいたい。  見てくれだけじゃなくて、中身も「かっこいい」って言われたい。 「おや、ご両親がもう到着のようですよ」 「えっ……!?」 「早いな……。  夕食を共にしたくてわざわざ仕事を切り上げて来たんですね」  ついさっき僕と通話をしていた父は、すでに本宅に戻っていたのかもしれない。  あの黒塗りの大きな車は父の愛車だ。  という事は、ほぼ確実に母も来ている。  やれやれと車を降りようとした僕の背中を、七海さんが「なぁ!」と引き止めた。 「俺、自分の家に帰っていい?  さすがに心の準備も出来てないのに、和彦の親には会えないよ」 「……七海さん、心配しないで。  僕の七海さんを傷付けるような真似は絶対にさせません。  信じてください」 「で、でも……!」 「お願いです、七海さん。  問題を解決するには七海さんの力が必要です。  父との作戦会議に、七海さんにも加わってほしい。  僕とこういう関係だという事、両親はすでに知っています」 「えぇっ、なんで!?  和彦もう言ったの!?」 「いえ……」  尻込みする七海さんの手を取り、チラ…と後藤さんを窺う。  その視線を追って、七海さんも後藤さんの方を見た。  運転席から振り返った後藤さんの顔には、柔和で朗らかな、第二の父親の笑みが乗っていた。

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