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 初めて会った日は、例のウーロンハイでほろ酔いどころか潰れてしまっていたし、その後に九条さんと行った居酒屋の席でも七海さんはそれほど変わった様子は無かった。  僕にお酒を飲む習慣がないから、自宅でもまったくアルコールは口にしない。  七海さんの酔った姿を見た事が無い僕には、素面の時以上の魔性が存在するという驚愕の事実が、すっぽりと頭から抜け落ちていた。 「そんじゃ七海から目離さねぇ事だ。 あと、お姉様達にも近付けんなよ」 「………「噂」、ですか」 「そ。 お坊ちゃまの不始末を七海の耳に入れたくねぇなら、しっかり捕まえとけ」  もちろん、もちろんだよ……!  僕の不安視していた噂は、向こうから接触してこない限り七海さんの耳に入る可能性は低い。  けれど、その自覚がない七海さんの魔性は僕にも止められない。  お酒を飲んでいつも以上の魔性を不特定多数の者達へ振り撒いた七海さんが、僕ではない誰かにモーションをかけられているところなんか想像もしたくない。  ヘタレな僕とは違い、パーティーに参加するのは各社の精鋭達や役職の者ばかりだ。  七海さんが恋したいと願っていた、漫画みたいな完璧な男性がたくさんいる。  ───弱々しい僕なんか一瞬で霞んでしまいそうなほど。 「………………」 「自信ねぇの? あんだけ自分達の世界入るくらいイチャついてんのに」 「……あるはずないじゃないですか。 僕達の気持ちは通い合っています。 それは実感としてちゃんとあります。 でも僕は人並みじゃありませんし、もしもこの先 七海さんの理想の人が現れたらと思うと……」  七海さんから告白してもらえて幸せでいっぱいだ。 本当に、幸せ。  だからこそすごく怖い。  この幸せがいつまで続くのか、七海さんは永遠に僕の事を好きでいてくれるのか、よそ見なんてしないと断言し、言葉と行動で僕を安心させてくれるのか、……ヘタレな僕はついそんな考えを持ってしまう。 「ほんっとお前らはまわりくどいよな」 「……そうは言っても……僕は七海さんが大切にしていた初めてを奪った男に変わりないんですよ。 七海さんも僕と同じ幸せを感じてくれているのかは分からないじゃないですか……」 「聞いてた以上のヘタレじゃん」 「……返す言葉もありません」  こんな情けない独り言を、九条さんに向けて言ってどうするの。  鼻で笑い、だったら俺が貰う、と言われてもおかしくないくらい、僕が七海さんの想いを掬ってあげられているのか自信が無かった。  かと言って、もう誰にも渡せはしないから、七海さんが告白してくれた言葉を信じるしかない。  僕の事が「好き」だと言った、恋する事を夢見ていた七海さんの儚い恋情を。 「七海が夢見てた恋愛っつーのは、あくまで妄想だろうが。 現実はヘタレお坊ちゃまを射止めてこうなっちまったんだから、素直に浮かれとけよ。 あんな最悪な出会い方しといて、七海がお前を追い掛けてた時点で自信持つべきだろうが」  ……恋敵だったとは思えない、感無量の激励に僕は言葉を失った。  他人はいつでも僕を傷付ける。 不愉快にする。  怖くて、面倒で、関わらなければ何の被害もないと思っていたけれど、そうすると今度は何も成長出来ないというジレンマが生まれた。  七海さんと出会ってから、僕は良い刺激をたくさん貰えている。 皮肉にも、九条さんの存在からも。 「九条さん、……どうして僕にそんな話を……?」  さすがに暑くなってきた僕は、立ち上がろうとしながら問い掛けた。  すると九条さんも同じタイミングで起立して、僕に視線を投げる。 「さっき七海も言ってたけど、俺と七海が友達で居る事を許してくれたからだ」 「あ、……」 「恋敵の印象が根強いっつってたし、ほんとは嫌なんだろーなって分かってはいんだけど、気が合うから俺も七海とは離れたくねぇ」  腕時計を確認し、構内へ入っていく九条さんと並んで歩いていると自然と人波が分かれていった。  神妙な顔付きの僕らに、いま話し掛ける強者は居ないだろう。  七海さんを迎えに行くつもりだった僕は、九条さんと並んで目的の場所まで行く事に、何の気後れもしなかった。 「……九条さんの事、最初はすごく嫌いでした。 ……でも今はそれほど嫌いではありません。 こんな僕とも対等に、初めから目を見て直球でお話してくださったのは、占部さんを除いて九条さんだけでした。 七海さんへの好意も、僕の前では隠していてくれて……単純に、尊敬できる部分が多いと分かってからは、九条さんが七海さんと二人きりで居てもカッとはしなくなりました」 「お坊ちゃまがぶっ飛んでたせいだな」 「……何も言えません」 「ははっ……だろうな。 今もぶっ飛んでるよ、お坊ちゃまは」  涼やかな構内が体と頭を冷やしていく。  七海さんが間もなく出てくる講義室の前で、僕達は壁際に隣り合った。  腕を組んだ九条さんが、僕に向かって初めて心から笑い掛けてくれた事を喜んでいいのか分からなかったけれど、このことを今すぐ七海さんに報告したいと思った。  本当に、七海さんの言う通りだったよ。  他人はそれほど怖くない。  信じられる他人を自分で見極めれば、最高の人間関係が築けるのかもしれない……と。 「七海を頼むぞ、マジで」 「はい。 ヘタレな僕ですが、一応七海さんとは魂の契約までした仲です」  七海さんを好きだった九条さんからの激励は、殊更僕の身に沁みた。  大切な人からの言葉は素直に聞けるものなんだと、知った。 「……魂の契約……? ……は?」  笑顔だった九条さんの表情が、直ちに強張る。  講義室から出てきた眠そうな七海さんと目が合って手を振ると、可愛く小走りで駆けてくる。  僕らが二人で約一時間も語らっていたと知ったら、七海さんは驚くだろうな。  ふと九条さんを見てみると、訳が分からないという表情でまだ僕を見ていて可笑しくなった。  九条さんに僕の事を理解してもらうには、もう少し時間がかかりそうだ。

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