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第1話

翻訳コマンドを打って入力キーを叩くと本田俊晴はタバコに火をつけた。紫煙をおおきく吐き出し缶コーヒーを一口飲む。1本吸い終わり背もたれに体重を預けて伸びをすると翻訳が無事に終了した。これで週末は二週間ぶりに休める。先々週『平成』という新元号の発表があってからこっち、自社で作成したあらゆるプログラム内の日付の和暦を西暦に変換する作業を突貫工事で進めている。本田をはじめSE全員がこの2週間風呂と着替えに毎日1時間ほど自宅に帰る以外に会社からほとんど出ていない。食事は女の子に買いに行ってもらったり店屋物をとったりして済ませ、特別に使用許可のおりた社長室のふかふか絨毯に交代で寝袋を持ち込んで2・3時間の仮眠をとり、ひたすら和暦を西暦にに変換させるステップを挿入していく。 創業9年、従業員25名の小さなソフトウェア会社だ。顧客の数も今まで納入したプログラムの数も知れているといえば知れているのだが、如何せん納期が短い。とりあえず2週間、応急処置でいいからなんとかしてくれと営業に泣きつかれて本田を含めた11人のオフコン(オフィスコンピューター)部門と6人のパソコン部門のSEはずっと会社に棲んでこの地道で面倒くさい作業を黙々とこなしていた。しかし今の修正でオフコン課の作業は終わりだ。一応課長である本田が最後の顧客の修正を引き受けて、他の社員は各々の担当会社の分が終わり次第帰宅させた。どうしても、という顧客以外は不公平感のないように来週一斉に納品することになっている。テストデータを使って動かしてみれば取りあえず問題なく年号の変更はなされていた。5インチフロッピーに今できたプログラムを落とし込みラベルを貼ってケースに入れ、退社すれば半月ぶりに寝床で寝られる。本田は布団の感触を思い出して顔が緩むのを自覚しながら時計を見れば午前2時を回っている。しかしそこで部屋には何の食糧も無かったことを思い出して舌打ちした。こんな時間では開いている店もない、と思いかけてマンションの近くにコンビニができたことを思い出した。あそこならおでんかなにか食べられるものを手に入れられるだろう。財布の中身を思い浮かべながらすべての機械の電源が落ちていることを確認してフロアの電気を消す。3階建ての小な自社ビルなので鍵を手に階段を降りると2階の電気がまだついていた。ノックしてドアを開けると奥の方でパソコンのSEである秋元良実がさっき本田がしていたのと同じように背もたれに体重をあずけて伸びをしていた。 「お前ひとりか?高田は?」 欠伸をしていたらしい秋元は涙目を本田に向けるとあわてて身を起こし 「あ、本田課長お疲れ様です。うちの課長ならどうしても今週中っていうお客さんの所に納品して直帰です。俺もこれ終わったらこっちの修正全部終了です。オフコンも終わりですか?」 落とし込みの終わったらしいフロッピーをアタッシュケースに入れながら聞いてきた。 「ああ、こっちも終了だ。ご苦労だったな。じゃあこのまま閉めてもいいか?」 2人で社屋を出るとセキュリティロックをした。真冬の深夜はことのほか冷える。ぶるりと震えた秋本から盛大な腹の虫の音がした。 「うー、腹減ってると寒さが沁みますよねー。なんか食って帰ろ」 秋元が車のキーを開けながら言うので思わず 「ラーメンでも食いに行くか?」 と誘ってしまったのは間違いだったのか正解だったのか。

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