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第56話※
「お前なんかが弥生に近づいていいと思って――」
「あの...ごめん、この手離してくれないかな。ちょっと息苦しくて...」
ゆっくりとした動きで和史の手首を掴む、千麻。
その瞬間、和史は眉間に皺を寄せパッと胸倉を掴んでいた手を離した。
「ふぅ、離してくれてありがとう。えーと、和史君、だっけ?ごめんね。俺、なんか君を怒らせちゃったみたいだね」
どこか他人行儀な態度を和史にとる千麻。そこで、ふと俺は疑問が浮かぶ。
先ほど千麻は俺と晴紀のことは知り合いだと公言していたが、和史のことは一切触れていなかった。
...なぜだ。なぜ、和史だけを。
まるで千麻と和史は今、初めて会うかのような態度。
いや、しかしそんなのはおかしい。
だって、初めて千麻と会った時、そこには俺や晴紀はもちろんのこと、和史もいたのだから。
しかも、たしかはじめに千麻に手を出したのも和史だったはずだ。
千麻が和史を知らないはずがないのに...
「...ちっ」
そんな千麻の態度に和史も何か引っかかったのか、不機嫌そうに眉間を寄せながら1人、早足でその場を去っていってしまった。
どこか動揺を隠すかのような足取りに俺は少し驚く。まるで、それでは和史が千麻から逃げたようにも見えたから。
「あ、あの...」
「あぁ、本当気にしないで!君が気に病むことはないよ。それじゃあ、俺もそろそろ行こうかな。汚れを落としにいかなきゃだしね。騒がせちゃってごめんね」
晴紀に抱きつかれたまま弥生は千麻に声をかけるが、当の本人はさわやかに笑いその場を後にしようと踵を返し始めた。
そこで漸く俺は張り詰めていた息を吐き出し、安堵する。...が、
「あ...僕、沙原 弥生っていうんだ!!君の名前を教えてくれないかっ?」
急に弥生はゆったりと歩く千麻の背中に向けてそう大声を出した。
弥生は普段そういった目立つ行動をしないため、俺と晴紀は驚いて目を張る。
「俺のことなら永妻君と綾西君が知ってるよ」
後ろを振り向きニコリと笑う千麻に俺は焦りと恐怖を感じた。それは晴紀も同様らしく、先ほどまで目を見張っていたのに
今は視線を下げ、視界から千麻を消し去っていた。
再び歩き出す千麻。そして、その姿を名残惜しそうに見つめ続ける弥生。
その頬は僅かに赤く染まっているように見えた。
「嫌、だ...っ」
耳の奥で、あいつの笑い声が聞こえた気がした。
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