56 / 140

第56話※

 「お前なんかが弥生に近づいていいと思って――」  「あの...ごめん、この手離してくれないかな。ちょっと息苦しくて...」  ゆっくりとした動きで和史の手首を掴む、千麻。 その瞬間、和史は眉間に皺を寄せパッと胸倉を掴んでいた手を離した。  「ふぅ、離してくれてありがとう。えーと、和史君、だっけ?ごめんね。俺、なんか君を怒らせちゃったみたいだね」  どこか他人行儀な態度を和史にとる千麻。そこで、ふと俺は疑問が浮かぶ。  先ほど千麻は俺と晴紀のことは知り合いだと公言していたが、和史のことは一切触れていなかった。  ...なぜだ。なぜ、和史だけを。  まるで千麻と和史は今、初めて会うかのような態度。  いや、しかしそんなのはおかしい。 だって、初めて千麻と会った時、そこには俺や晴紀はもちろんのこと、和史もいたのだから。 しかも、たしかはじめに千麻に手を出したのも和史だったはずだ。  千麻が和史を知らないはずがないのに...  「...ちっ」  そんな千麻の態度に和史も何か引っかかったのか、不機嫌そうに眉間を寄せながら1人、早足でその場を去っていってしまった。  どこか動揺を隠すかのような足取りに俺は少し驚く。まるで、それでは和史が千麻から逃げたようにも見えたから。  「あ、あの...」  「あぁ、本当気にしないで!君が気に病むことはないよ。それじゃあ、俺もそろそろ行こうかな。汚れを落としにいかなきゃだしね。騒がせちゃってごめんね」  晴紀に抱きつかれたまま弥生は千麻に声をかけるが、当の本人はさわやかに笑いその場を後にしようと踵を返し始めた。  そこで漸く俺は張り詰めていた息を吐き出し、安堵する。...が、  「あ...僕、沙原 弥生っていうんだ!!君の名前を教えてくれないかっ?」  急に弥生はゆったりと歩く千麻の背中に向けてそう大声を出した。  弥生は普段そういった目立つ行動をしないため、俺と晴紀は驚いて目を張る。  「俺のことなら永妻君と綾西君が知ってるよ」  後ろを振り向きニコリと笑う千麻に俺は焦りと恐怖を感じた。それは晴紀も同様らしく、先ほどまで目を見張っていたのに 今は視線を下げ、視界から千麻を消し去っていた。  再び歩き出す千麻。そして、その姿を名残惜しそうに見つめ続ける弥生。  その頬は僅かに赤く染まっているように見えた。  「嫌、だ...っ」  耳の奥で、あいつの笑い声が聞こえた気がした。

ともだちにシェアしよう!