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1,鏡の前に立つ男
「エントリーナンバー千とんで1、上岡 一月 くんだよね?」
審査員の1人が、手元の資料と俺の顔を見比べた。確かに俺の左胸には『1001』と書かれたプレートがぶら下がっている。
「いちがつと書いていつきか、少し珍しい名前だね。それで、事前に配布したオーディション用の台本は持っているかな?」
右手に丸めていた紙束を、俺は戸惑いながら見下ろした。
「持ってるね、それだ。それに沿って演技をしてくれるかな? 初めのシーンは……」
台本を開き、そこに並んだ文字を目でなぞる。
新番組ユーマニオン・ネクスト出演者オーディション最終審査用、シーン1、柱、電車車内――。
その文字が目に飛び込んできた分、頭の中に満ちていた景色のパーツが弾き飛ばされていった。欠落してしまった景色を前に、俺は混乱する。
「君、返事くらいしたらどうなんだ。上岡くんで間違いないのかな?」
さっき促してきた人とは別の審査員がそう言って、苛立たしげに眉をひそめた。
俺が上岡一月かどうか。彼らはそれを確認している。俺は首を回し、部屋の側面の壁に貼られた大きな鏡を見た。
鏡には背の高い若者が映っていた。黒のパンツに黒のシャツ、足下は厚底ブーツで固めている。額にかかる黒髪がわずかに乱れた波を作っていた。この距離からだと、骨ばったひじや鎖骨が白い皮膚から浮き出て見える。肩幅はそこそこある。体は細いけれど、骨格はしっかりしている印象だ。
「上岡一月、20歳……」
その姿を見て浮かんだ言葉を口にすると、さっきの審査員が納得したように頷 いた。
俺が声を発したことで他の審査員たちも安心したように表情を緩める。目の前の生き物が生きていることを確認したとでもいうように。
「じゃあ、シーン1から始めてくれるかな」
始める――この台本のシーンを演じろというわけだ。ところが右手に持った台本を見ても、心が、体が動かない。
(俺は誰だ……ユーマニオンレッド? それとも上岡一月?)
少なくともこの部屋に入るまでは、ユーマニオンレッドに変身する前のスバル青年だったはずだ。いや、それを演じようとする上岡一月だったのか。
自分の存在が分からなくなってしまった。呆然 として、広い審査会場の中心に立ち尽くす。
「俺は……」
辺りを見回したその瞬間、斜め後ろにいた男と目が合った。光沢のあるスーツの袖口をひじまで折り返している、この男の名前は宇佐見 丈 だ。俺がどうして彼の名前を知っているのか。その理由は分からない。いや、分かっていて当然だ。彼は上岡一月のマネージャーで……。
上岡一月? 上岡一月とユーマニオンレッドの関係は――。
「分からない……」
部屋を見回しながら、片手で髪を掻 き乱す。
「上岡くん? 演技を……」
審査員が促す。
「上岡? 誰のことを言ってる」
「おい一月っ……!」
マネージャーが大股で歩み寄ってきて、俺の腕を横からつかんだ。
「すいません! コイツ具合が悪いみたいで、1回飛ばしちゃってください! ほらっ、あとがつかえてるみたいですしね! 一月はまた……最後で構いませんから!」
居並ぶ審査員たちがザワザワと話しだす。そんな中マネージャーに引っ張られ、俺は部屋の外へと連れ出された。
*
「いつきぃいいい、しっかりしてくれよぉおおお!」
控え室になっているセミナールームのパイプ椅子に俺を座らせ、マネージャーが泣き顔をしてみせた。
部屋の中に散らばっていた人たちが、怪訝 そうな顔でこっちを見る。人数は20人程度。付き添いも交じっているだろうから、今候補者で残っているのは10数人というところか。二次、三次と審査が進むうち、随分人数が絞り込まれた。
今日は最終審査で、この中から来年の新番組『ユーマニオン・ネクスト』の主演と脇役の数人が選ばれる。
彼らから距離があることを確認しながら、マネージャーが声をひそめて言った。
「いいか一月、二次審査までで主役に内定してたって、最終でぼーっと立ってるだけじゃさすがに内定取り消される……! ちゃんと集中してくれよ~」
マネージャーが言う通り、二次審査が終わった時点で事務所に内定の連絡が来ていた。主役は上岡一月でほぼ決まり。あとは他の役のキャストを、主役とのバランスを見ながら決める。監督とプロデューサーの間では、そういう話になっているらしい。
だが内定はあくまで内定だ。何かあって彼らの考えが変わるかもしれないし、スポンサーや外部の意向で状況が変わることだってあり得る。うちよりでかい事務所が、自分のところの若手をとねじ込んでくるとか。
だからこそ俺もオーディションでの演技は、自分なりに完璧なものにしたかったわけで……。
「分かってる。さっきは力みすぎた」
俺としてはそれ以外に言葉が見当たらない。
「それで演技に入れなかったわけ?」
「入れなかったというより……俺からレッドに飛び込む、その間の溝に挟まれた」
「飛び込もうとして挟まれた? 電車とホームの隙間に挟まれたみたいな!?」
頷いてみせると、さっきまでピリピリしていたマネージャーが笑いだした。
「なんだそれ~! 一月は演技するのにも命がけだなぁ!」
でも笑い事じゃなく、本当にそうなんだ。演技をする時、俺は自分自身を手放し、演じようとする役柄に飛び込まなければならない。電車の運転手が運転席のドアから、併走して走る別の列車に飛び移るみたいに。
逆に自分の方に演じようとする人格が降りてくるっていう役者もいる。そういう場合は列車同士が走りながら連結するみたいなものだろうか。想像はできるけれど、俺にはそんな器用な真似はできない。役柄の人格と平行して自分の人格がそこにあれば、進む方向すら定まらない。自分を手放さなければ、自分の持つ恐れや遠慮みたいなものが演技に出てしまう。
そう考えるとやっぱり俺は、演じるために走る列車に飛び乗るしかなかった。当然危険もあるし恐ろしい。例えば虚脱状態になってしまったり、自分の状況が分からなくなってしまったりすることもある。今のところ、なんとかやり過ごせてはいるけれど……。不器用ゆえの精神的負荷は高かった。
こんな俺を天才だという人もいる。笑わせないでほしい。これが天に授かった才能なら、神様は相当なサディストだ。その贈り物を開けるたび、俺は毎回血だらけだ。そんなのは神というより悪魔の所行だと思う。
俺はため息をつき、持っていた台本をゴミ箱にねじ込んだ。
「おいおい一月!?」
マネージャーが慌てて台本を拾い上げる。
「いいんだ覚えたから。さっきだって名前を呼ばれたり台本を見たりしなければ、すんなり演技を始められた」
「だとしてもさぁ、次に呼ばれた時に手ぶらだったら相当やる気がないと思われるだろ。ただでさえさっきのあれで、印象としては試合放棄したみたいになってるんだから」
マネージャーはソワソワと周りを見回しながら、曲がった台本の角を伸ばした。彼も必死だ。それくらいユーマニオンシリーズで役を貰 うということは、事務所にとっても重要なことだった。
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