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6,吐き気
A棟のトイレで胃の中のものを吐き出し、ロビーで待っていたマネージャーと合流した。
「一月どうしたんだよぉ、真っ青じゃん!」
「なんでもない……」
手を拭いたハンカチで口元も拭きながら、長椅子の隅に腰を下ろす。
胃の中にはたいしたものは入っていなかったけれど、吐き出したいのは別のものだったからそれでいい。
そうだ、なんでもない。俺は大丈夫だ。
「いやいやいや、なんでもないわけないだろー!」
1人分間隔を空けて座ったのに、身を乗り出してきたマネージャーに顔を覗 き込まれた。彼の声が大きいせいで、ロビーにいた警備員がこっちを向く。
面倒くさい。説明しなければならないのか。
「やなことあって、吐いた」
小声でそれだけ伝えた。
「そうじゃないかと思ったよ~」
俺を覗き込んでいたマネージャーの顔が、勝ち誇ったように輝く。
「やなことって?」
「それは言いたくない」
「そう。だったらいいけどさ、お前、ため込まずに吐き出せよ? あとから爆発されても困る」
それからマネージャーは、俺への興味を急速に失ったように体を離した。
(爆発されても困る、か。はいはい)
けど俺だってそんなに頻繁に問題を起こしているわけじゃない。記憶にあるのは、やたら馴 れ馴 れしい共演者と長時間一緒にさせられた時や、モデルの仕事でいきなりヌードにされた時のことくらいだ。
あの時はマネージャーに文句を言ったけど、今回のことはさすがにこの人には言えない。
さっき見た光景がまたフラッシュバックしそうになる。
俺は頭を振って、それを自分の中から追い出した。
「もうすぐ顔合わせ始まるからな」
マネージャーが腕時計を見ながら言った。
「一月に愛想なんて期待してないけどさ、せめて嫌そうな顔はすんなよ?」
「分かってる」
「ならいいけど……」
マネージャーが話を打ち切りかけた時、ちょうど撮影所のスタッフが近づいてきた。
「会議室の準備ができましたので、そちらにご案内しますね」
俺たちは立ち上がり、案内されるまま奥へ進む。
1階奥の扉をくぐると、そこが広い会議室になっていた。テーブルが大きなコの字の形に組まれていて、椅子は壁際にも並べられている。
テーブルにはペットボトルと名前が記されたプレートが置かれていた。
俺は自分の名前が書かれた席に座り、マネージャーは壁際の椅子に腰かけた。
それから次々と席が埋まっていく。
見回すとオーディションの審査員として見た顔、それに一緒にオーディションを受けた役者の顔もあった。
羽田さんはいない。
またしばらく待ち、時間ぴったりになって羽田さん、それからプロデューサーが入ってきた。
羽田さんは俺の対面に残っていた席を埋める。それから何食わぬ顔で隣の人と言葉を交わしていた。
「みんな集まったようだし始めようか」
プロデューサーが口火を切り、顔合わせの会議が始まった。
改めて番組の歴史と主旨、それから新作の見所が語られ、そのあと各セクションの責任者が紹介されていく。
名前を呼ばれた者が立ち、軽く自己紹介をする形だった。
「えー、それではお待ちかね、俳優部門。主演はみんなも知っている通り、上岡一月くん!」
名前を呼ばれて立ち上がると、ひときわ大きな拍手が起こる。
プロデューサーが続けた。
「千人を超える応募者の中から選ばれた、期待の新星です。特に監督がベタ惚 れでね」
反射的にそちらを見ると、監督が白いものの交じった頭を掻 いて笑う。
「才能のある若者というのは本当に眩 しい。ねえ羽田くん」
どうしてか監督は、そこで羽田さんに矛先を向けた。
「えっ、俺ですか?」
羽田さんが驚いたように腰を浮かし、会議室のそこかしこから笑い声が聞こえた。
その様子だと最終審査のあと、彼らで俺のことを噂していたに違いない。
プロデューサーが俺に向き直る。
「じゃあ上岡くんひと言」
「上岡一月です、よろしくお願いします……」
俺の挨拶が素っ気なさすぎたのか、まだ何か言うんじゃないかという期待の視線を感じた。
後ろにいるマネージャーだけが、俺では間を持たせられないと分かっていて、頷く仕草で早く座れと伝えてくる。
俺は立ったままもう一度だけ会議室を見渡し、何も言わずに椅子へ腰を戻した。
落胆したような、不思議がっているような、そんな気配をみんなから感じる。だからこういう席は苦手だ。
それからヒロイン役が名前を呼ばれ、みんなの注目はそっちに移っていった。
自己紹介が一巡したあと今後のスケジュールについての説明があり、それで今日は解散となった。
俺を含めた若手のメインキャストは再来月のクランクインに先立ち、何回かに分けて演技指導を受けることになるそうだ。その合間に衣装合わせもあるらしい。
「よろしくね、一月くん」
集まっていたみんながバラバラと席を立つ中、隣に座っていたヒロイン役の女優に握手を求められた。
マネージャーから、嫌そうな顔はするなと言われていたことを思い出す。
「よろしく」
立ち上がり、差し出された手をさっと握ってすぐ放した。
すると他のキャストまで俺に握手を求めてくる。こういうのが本当に苦手だけれど、ぐっとこらえて手を握り、なんとかやり過ごした。
それでみんなは納得したように戸口へ流れていく。雑談も聞こえ、空気は和やかだった。
(これも仕事のうちだ……)
そんな時――。
「一月!」
後ろから名前を呼ばれ、肩に触れられた。
振り向くと羽田さんがそこにいる。わざわざテーブルの向こうから回ってきたのか。
「先月の最終審査で会ったよな。あの時はありがとな」
彼は精悍な顔に、人懐っこい笑みを浮かべている。
確かに最終審査では会った。けれどそのあと、1時間前にも顔を合わせたじゃないか。あれをなかったことにしろっていう意味なんだろうか。
どちらにしても、あんなところを見られて、平気で挨拶しに来るこの人のメンタルが分からない。
何も言わない俺を前に、羽田さんは困ったように首をひねった。
「そんな警戒すんなって」
今度は肩を正面から軽く揉 まれた。勢いで顔と顔が近づく。
彫刻のようにメリハリの利いた目鼻立ちに目を奪われた。
その下にある厚めの唇には、相変わらずの笑みが浮かんでいる。
(なに……)
頭が混乱した。彼の示す親しみと、俺の感じている警戒心が噛み合わない。
彼とは距離を置いた方がいい、そう訴える防衛本能と、彼に強く惹かれる自分の意識が喧嘩 した。
(なんで……)
色っぽい姿で熱い吐息を吐き出していた、1時間前の彼の姿が脳内で膨れあがった。
俺は思わず顔を背け、彼の肩を押しのける。
「……っ、一月?」
「俺に触んな!」
小声で言ったつもりが、語気が鋭くなる。
「おい」
「馴れ馴れしく呼ぶな!」
頭の中の妄想を振り払うように、彼のことを突き放した。
羽田さんは戸惑いをにじませながらも、まだ笑みを含んだ声で語りかけてくる。
「なんだよ、一緒にレッドを演じる仲だろ?」
「俺は……俺はあんたを、レッドだって認めてない!」
もう一度触れようとしてきた彼の手を、今度こそ思い切り振り払った。
驚きに見開かれた目と視線が合わさる。その目がすっと細められた。
「ほお……?」
さっきまでそこに宿っていた親しみの色が消えている。
羽田さんが腕組みし、距離を詰めてきた。
「お前、面白いこと言うな? この俺がレッドじゃなきゃ、誰がレッドだって言うんだ」
さっきまでと違う腹の底に響くような声だった。
獰猛 な動物に睨まれたように、心臓がびくんと縮こまる。
「こちとら芸歴十何年、お前が鼻垂れ小僧の頃からヒーローやってんだ」
俺の記憶が正しければ、羽田光耀が初めてユーマニオンレッドのスーツアクターに抜擢されたのは、2013年の『ユーマニオン・マッハ』。その時俺はまだ中学生だった。
彼の言っていることは間違っていない。
「だからって……」
言い返す声が、のどのところで詰まって震える。
「俺はあなたが、ヒーローにふさわしいとは思えない!」
「おいおいおい! 一月っ、何言っちゃってるんだよ~!」
マネージャーが止めに入ってきて、俺を羽田さんから引き離した。
「羽田くんも落ち着いて!」
そう言って彼の腕を引き寄せたのは、一度出ていったはずの監督だった。
気づけばまだ会議室に残っていた人たちが、ぎょっとした顔で俺たちを見ている。
「別に、俺は落ち着いてる」
さっきまであからさまに威嚇の声を発していた羽田さんが、ため息交じりに言って肩をすくめた。
「上岡一月、面白い。どっちがユーマニオンレッドにふさわしいか、それはカメラの前で決めよう」
彼は口の端に笑みを浮かべ、俺の頭の先から足下までを品定めするように眺める。
「……楽しみにしてる」
それから羽田さんは居合わせた全員の注目を浴びながら、大股で会議室を出ていった。
(は――)
彼の姿が消えた途端、その場の空気が一気に緩む。
「何だよ今の、勘弁してくれよ~!」
俺の腕をつかんだまま、マネージャーが泣き顔になっていた。
「宇佐見さんが言った、ため込まずに吐き出せって」
「はあっ? 言ったけどさ、なんで共演者に吐き出すんだよ! 俺に言えよ!」
ともかくここにいたくなかった。俺は腕を放さないマネージャーを引きずるようにして、会議室をあとにした。
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