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第一節気 立春 次候*黄鶯睍睆(うぐいすなく)

 黄泉がえり、という言葉がある。  死者が文字通り、生者の世界へと戻ってくることだ。  余りにも今世に未練を残した死者は、あの世に行けずにこの世界を彷徨うという。これも祖父の寝物語の受け売りだ。  ほと、ほと。  音が聞こえる方へと、ひとりでに足が向かう。どうやら玄関の辺りかららしい。  今夜は風が強い。怪異など子供だましなお伽話だと知ってはいるが、今夜は昔語りに飲み込まれてしまいそうだ。  単なる風の音だろうと思ったが、ガラス戸を揺さぶる音に混じって、やけに耳に残る。廊下の奥から玄関を覗き込むと、真っ暗に沈んだ闇の先に、白い影が浮かんでいた。ぽっかりと。黒を切り抜いたように。  一瞬、後ずさってしまった自分に後悔する。  違う、あれは人だ。 「すみませ~ん」  現に風の音に紛れて呼ぶ声が聞こえてくるじゃないか。  戸口を叩いている音と、聞こえる声に安堵すると、暁治(あきはる)は少し赤らんだ顔を隠すように、口元を押さえながら戸口に向かった。すっかり祖父に毒されていたようだ。 「は~い、どちらさんで?」  壁にあるスイッチを探りながら、外に声をかける。すぐ手に触れた出っ張りを押すと、辺りに光が満ちた。 「近所のものです。引っ越し祝いを持ってきました」  どこのご近所さんだろうと、思考を巡らせる。近所といっても両隣の玄関も数メートル先だ。一応村ではなく辛うじて町。徒歩二十分も歩けば、単線ではない線路が走っている場所ではあるが。  いや、それよりも。  ――普通、引っ越し祝いって、引っ越してきた方が配るものではないだろうか。  暁治が眉をひそめてる間にも、ほと、ほと、と戸を叩く音。 「お酒あるよー」 「お寿司もあるよー!」  楽しげな、幼い子供たちの声。  こんな時間に?  先ほど時間を見たときには、日付が変わる手前だったはず。  思わず玄関先まで歩く。白い大きな影のそばに小さな影が二つ見えて、ごくりと息を飲んだ。 「なんと、饅頭もあるよー」  もしかして自分は、食べ物で釣られるやつだと思われているのだろうか。  迷っているのが馬鹿らしくなってくる。自分を害そうと思ってるようなやつらがいるとしても、こんな風に真夜中に玄関先で騒いだりしないだろう。田舎とはいえ、ここは人家なのだ。  後から思い返せば、子供連れというのが警戒心を緩めたのだと、果たして言い訳になるだろうか。  少し鍵を開けて戸の隙間から覗く。 「あ、開いたー」 「やたー!」  視線を下げると小さな子供が二人、玄関で飛び跳ねた。  手には大きな一升瓶、もう一人は大きな風呂敷包みを持っている。小学校に入る手前くらいだろうか。外に無造作に跳ねた短い髪に大きな狐の面を斜にかぶっている。  双子のようにそっくりな彼らは、一升瓶を持った方が白い髪、風呂敷包みを持った方が黒い髪。紺色のかすりの着物の上に、髪と同じ色の水玉模様の半纏を着ている。水玉は白は黒、黒は白。モノクロ色の半纏は、暗がりに奇妙に浮いていた。 「初めましてー」 「この町にようこそー!」  二人はくりくりとした大きな黒い瞳をこちらに向けると、にかりと笑みを浮かべた。一卵性双生児だろうか。二つ並んだ同じ顔。笑うと丸い瞳が糸のように細くなる。  まるで雀か春先の鶯のように姦しい。 「やぁ、今日は寒いねぇ」  すぐそばで声がして、手元が重くなった。  唐草模様の緑の風呂敷包みが、いつの間にか腕の中にずっしりある。 「崎山の婆んちのだから美味いよ?」  崎山の婆ってなんだろう、いや誰だろう。 「とりあえず寒いし、入れてくれる?」 「あ、うん」  目を上げると、にこにことした人のよさそうな笑みを浮かべた男がいた。いや、さっきから戸を叩いていたのは彼だろう。  ふんわりと柔らかそうな薄茶の髪と、彫りの深い繊細な顔立ちは、少し日本人離れした印象を受ける。  暁治より幾分目線が低い。子供たちとは色違いの、黄色いかすり。纏った半纏は鶯色と呼ばれる灰色がかった緑褐色だ。  彼の言うように、今日はかなり寒い。このまま騒がれても迷惑だし、中で話を聞いた方がよさそうだ。 「おっじゃましまーす」 「びゅーん!」  暁治が身体をずらすやいなや、子供たちは止める間もなく三和土で草履を脱いで、奥へと走り出した。大きな酒瓶や包みを抱えながら大丈夫なのかと心配したが、結構力はあるようだ。 「僕もいい?」 「……どうぞ」  夜中に押しかけてくる割に、礼儀は正しいらしい。  先に立つ暁治が子供たちの草履を揃えていると、男がそばでじっと立っているのに気づいた。なんだか落ち着かなくて、子供たちのように先に行けと顎をしゃくった。 「こういうの、気になるんだよ」  フォローの言葉は言い訳がましいだろうか。 「いや、すごくいいなって、思うよ」  男と言うより、まだ少年といった年齢だろうか。その割りに年上にしか見えないだろう暁治に気安い気がする。  彼は暁治の隣に座ると、自分の草履を揃えた。 「こういう気遣い、出来ないより出来た方がカッコイイ」 「カッコ……いいか」  普通に褒められるより、なんだかするっと腑に落ちた。 「うむうむ」  男というより少年は、大仰にうなずくと、半纏の袖口からなにやら白いものを取り出した。 「いい子の暁治くんに、アケミネくんからご褒美で~す」  むぎゅっと、少し開いた口に大きなものが押し込まれた。驚いて口元に手を伸ばしてつかむと、大きな饅頭だ。  蒸しパンのようにふっくらしたもちもちの生地の中に、あんこがぎっしりつまっている。  出来立てなのか、それとも袖口に入れていたせいか、少し温かい。 「あけみねー」 「はやくー!」 「はぁ~い、ほら、行こう行こう」  アケミネ、というのは彼の名前だろうか。  袖口を引っ張られ、家の奥へと追い立てられる。  いや、ここは俺の家なんだが。少しばかり理不尽を感じて、暁治はそう独りごちた。

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