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第三節気 啓蟄 初候*蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)

 光陰矢の如しという。  季節の移り変わりはこんな田舎町だと敏感になるのだろうか。都会ではついぞ感じたことのない暁治(あきはる)だったが、今日はぼんやりした陽射しの下で冷たい風が少し温かさを増したのに気づいた。  彼がこの町に来て一ヶ月が過ぎた。  少々建てつけの悪い扉や、日本家屋にありがちな隙間風には閉口するが、前の住人が大事にしていたおかげか、住み心地は悪くはない。  無計画に引っ越してしまった自覚はあるが、職も決まりそうだししばらくはこの家を住処にするつもりだ。  ただひとつのことを除けば、だが。 「あ、はるぅ~、僕今日のお昼はうどんがいいなぁ。卵と長ネギ刻んだやつと、ほら昨日作ってた肉そぼろも入れて欲しい」  台所の隣の和室には正方形の大きめのこたつが置いてある。掘りごたつになっていて、大人と子供ならぎりぎり並んで一緒に座ることが出来る大きさだ。  小さいころ家族で遊びに来たときには、祖父、祖母、母親と妹、暁治は父親と並んで座ったものだ。  テレビのちょうど正面、堀になった部分を避けて、こたつ布団をかぶっているのは、なぜか最近うちに入り浸っている自称ご近所さんである。真綿入りの硬めの大きい布団だからだろうか。暁治の座っている向かいの席からだと、横からにょっきりと頭だけ出ているのが見える。  ずうずうしい半居候状態の少年に、こたつの上のみかんをむいていた暁治は、ことさら冷たく答えた。 「今日の昼はカップラーメンで、お前の分はない」 「え~? なんでぇ?」 「なんでは俺の台詞だ。なんでお前はここにいるんだ」  自分の家で食えばいいのに、彼は最近夕方になると飯をたかりに来る。休みの日には昼前からだ。こいつは他に行くところがないのだろうか。おまけに昨日ストック用に作った肉そぼろのことも知ってるときた。いつの間に知ったのだろう。 「えへへ~、それは内緒」  朱嶺(あけみね)と名乗った自称ご近所さんは、こたつ布団から顔だけ出してこちらを向いた。まるでこたつを背負った亀のようだ。それとも季節柄春に地中から顔を出したカエルといってもいいだろうか。整った顔立ちなだけに残念極まりない。  語尾にハートマークがつきそうなイントネーションに、暁治はこめかみを押さえる。 「カップラーメンだったら僕シーフードがいいなぁ。シーフードある?」  ある。暁治はノーマルなしょうゆ味も好きだが一番好きなのはシーフードだ。料理好きなため自炊に抵抗はないのだが、ラーメンは別だ。たまに無性に食べたくなるので、大量にストックずみである。  冷凍うどんもあるが、今日はめんどくさい。お湯だけ作って待てばいいラーメンは主夫の救世主だ。 「あれね、はる知ってる?」  口元に手を当てて声を潜められ、暁治は思わずこたつに手をついて前のめりになった。 「なんだ」  思わせぶりな言い方に眉をひそめる。まるでとっておきの内緒話のようだ。 「シーフードヌードルに、お湯少なめにして牛乳入れてとろけるチーズを載せるとね、あれはヤバいよ?」  朱嶺の言葉を聞いて、ちょっと想像してみる。確かに。 「クラムチャウダーみたいな?」  うんうんと、心の中で同意する。コショウもきかせてみたい。 「一味を入れてちょっとピリ辛にもしてみたいよね。あとね、食べ終わった後に溶き卵とご飯を入れてレンチンすると」  もぐもぐと、暁治のむいたみかんを食べながら、朱嶺が言う。暁治はそれに気づかないまま、ふらりと立ち上がって台所へ向かった。  お湯はポットにあるはず。牛乳は昨日買った。チーズは先日作ったピザの残りがある。  ポットの沸かし直しボタンを押すと、後ろからちゃっかりついてきた朱嶺が、気を利かせて冷蔵庫から牛乳とチーズを出してきた。  シーフードヌードルの二つ目のシュリンクを開けられて、なんてずうずうしいと思ったものの、アイデア料だと思って我慢する。  二人して向かい合わせでこたつにもぐると、三分間。 「いただきまーす」 「いただきます」  一緒に手を合わせると、ふたを開いた。  ふんわりと顔を包み込む湯気を払うと、真っ白なミルクスープから麺を救い出す。 「うまー」  暁治の倍くらい、ごっそりとチーズを入れた朱嶺は、とろりとしたスープをまとった麺を口に入れるや頬を押さえた。  それを横目で見ながら自分も一口食べる。 「確かにヤバい、な」 「でしょー?」  あっさり食べ終わった朱嶺は、足取りも軽く台所へ向かう。スープの残ったカップにご飯と溶き卵を入れて混ぜるとレンジに入れた。 「三分間待つのだ」  腕を組んで重々しく告げると、人差し指を伸ばしてちょんっと、スイッチを入れる。可愛い子ぶった仕草に呆れつつ、続いて食べ終わった暁治もご飯と卵を入れた。 「そいや、お前の家ってこの辺なのか?」  お腹がくちくなると、人は心が広くなる。  越してきて一ヶ月、ようやく彼は目の前の不法侵入常習者についての疑問を口にした。  最近気がつけば家の中にいるのだこいつは。昨日も朝起きたらこたつで寝ていて、外に蹴り出したところ。 「うんうん、そうなの」  彼の言葉に朱嶺は軽く応じた。  スープまで飲み干すと朱嶺は満足したのか、カップをゴミ箱に捨ててまた横になった。  こたつむりって言ったっけ?  こたつ布団から顔だけ出してテレビを見ている姿はさもあらん。お昼のバラエティ番組から時折流れる笑い声に、一緒になって笑っている。どこが面白いのか、暁治にはついぞわからない。  妖怪こたつむり。もしこいつが不審者でなく物の怪なら、ぴったりの名前だろう。  かたり。  ふと、そんな音が耳に触れた。  アトリエの方に目を向けると、「どうかした?」と朱嶺が聞いてくる。 「いや、なんか音が」  聞こえた気がする。  するっと背筋を冷たいものがなでた。とても奇妙な感じだ。 「あぁ。たぶんぼっこちゃんだよ」 「ぼっこちゃん?」 「うん。そいや、そろそろそんな時季かぁ」  よっこらしょと、年寄りのようなかけ声をかけた朱嶺は、すっくりとこたつの殻を脱いで立つと、台所へ向かった。さっぱり意味がわからないまま、暁治も彼に続く。  朱嶺はそのまま台所を抜け、勝手口の扉を開けて家の裏手に出た。ここは物干し場になっていて、洗濯機が置いてある。  なにをするつもりだろう。暁治は跡を追うようにそこにあった祖父の下駄を履くと、彼の向かった方を見やった。  朱嶺は物干し場とは逆に向くと、すぐ隣にある納屋の扉を開ける。 「そこ、鍵がかかってたんだけど」 「あ、うん、よく手伝ってたからね」  どうやら祖父のときからこんな調子だったようだ。彼は納屋に入ると、奥の方にあった箱をいくつか持ち出してくる。 「ちょっと数があるから、手伝って」 「手伝ってもなにも、ここ俺の家なんだけど」 「まぁまぁ、固いこと言わないで」  ほんにゃりした笑顔を向けられると、それ以上は言わない方がいいような気がするのって、日本人の性だろうか。  暁治は積み上がった荷物を見て青くなる。まさかこれを運べというのだろうか。  振り回されてるよな、俺。暁治はそんなことを思いつつ、肩を落とした。

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