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第四節気 春分 次候*桜始開(さくらはじめてひらく)

 春がすぐそこまで近づいた。うららかな日和で、庭の桜も膨らんだ蕾を綻ばせ始めている。梅の見頃は終わったので次は桜だなと、イーゼルを担いで暁治(あきはる)は庭へ下りた。  そして桜が良く見える場所を探して木の近くをウロウロとし、ピンとくると場所に目印を挿す。それはガーデンピックと呼ばれる、花壇や鉢植えを飾るアイテムだ。種植えを終えた花壇に目印を挿しておこうと、朱嶺(あけみね)が納屋から持ち出した。  本来の用途と違う使い方をしているが、庭のどこにでも挿せて見栄えもいいのでわりと重宝している。足元のそれは風車を模しており、風が吹くとくるくると黄色い羽を回す。 「もう少し咲いたら花見ができるかな」  絵を仕上げているうちにもっと花も開いて満開になるかもしれない。そうしたらここで花見をしようと決めていた。大学時代は学友と楽しんだが、庭での花見は趣がある。  幼かった頃はここで祖母の作るちらし寿司を食べながら花見をした。花見酒をしている祖父が羨ましくて、暁治は米麹の甘酒をもらって真似っこをなどもした。思い返してみるとこの家には思い出が多い。  けれど先日、仏間のタンスの上にあったアルバムを開いたが、ぼんやりと記憶に残る一緒に遊んでくれた少年の姿は見当たらなかった。外で遊んだ思い出のほうが多い気もしたが、この家で祖父とも遊んだ覚えもあったのだが。  そう言えばいつ頃まで一緒にいたのだったかと暁治は首をひねる。そしてなにか忘れているような、そんな感覚に小さく唸った。 「最後になにか言ってたな。……なんだったっけ」  それはおそらく暁治が小学校を卒業するよりも少し前、なにかを約束して指切りした。しかし浮かんできそうで浮かんでこない記憶――なんだかモヤモヤむずむずとして落ち着かない。 「はーるっ」 「……っ! びっくりしたっ」  しばし唸っていると突然背後から声をかけられた。肩を跳ね上げて振り返ると、庭の入り口からこちらを見る朱嶺の姿がある。それを認めて暁治は腕時計に視線を落とした。 「もう僕、春休みだよ」  何気ない仕草で気づいたのか、先回りするように朱嶺が声を上げる。そしてなんの了承もなくずんずんと庭に侵入してきた。けれどもうそれも慣れた。暁治が肩をすくめるとにんまり笑った彼は手に持ったものを掲げる。 「なに?」 「桜餅!」 「花見にはまだ早いぞ」 「いつもお世話になってるお礼だよ。食べよう」  食べよう――イコール、茶を淹れろと言うことかと暁治が眉をひそめたら、にへらと笑って朱嶺はパタパタと家のほうへ駆けていった。まだ画材を広げただけでひと休憩という頃合いでもないが、桜は逃げないと暁治は縁側に足を向ける。  置いて行かれた包みに手を伸ばして風呂敷を解くと、漆塗りと思われる四角い菓子器。上品なそれの蓋を開けば長命寺と道明寺の二種類の桜餅が収まっていた。 「美味そう」 「はるはどっちが好き?」  目移りする桜餅を眺めていると盆に湯飲みを載せて朱嶺が戻ってきた。隣に腰かけた彼に視線を移すと小さく首を傾げられる。 「んー、どっちも好きだけど。この家で食べてたのは道明寺だから、そっちのほうが馴染みがあるかな」 「僕もこっち。正治(まさはる)さんが桜餅大好きでよく一緒に食べたよ」 「ん、お前、じいちゃんのこと名前で呼んでたの? そういやいつからここに出入りしてるんだ?」 「え? うーん、いつだったかなぁ。結構前から。正治さんが一人だった頃からだよ」  ひょいと菓子器から摘まんだ道明寺を口に運んだ横顔を見ながら、暁治は少しばかり考えを巡らせる。昔からとは言っても朱嶺の話を祖父から聞いた覚えもないし、彼をいままで見かけたこともない。  しかしいまの歳から想定できるのは自分がこの家を疎遠にしていた頃かと思う。祖母亡きあと祖父が一人きりだったことを考えれば、彼の存在は孫のようなものだったのかもしれない。  年寄り孝行をしない本当の孫の名前はきっとその頃に聞いたのだろう。 「そうか、じいちゃんはお前がいたから寂しくなかったんだな」 「正治さんと僕は、……そう、親友ってやつだね」  じっと見つめる暁治の視線に振り向いた朱嶺は少しだけ寂しそうに笑ってから、それをかき消すみたいに満面の笑みを浮かべた。その表情の変化に少しばかり引っかかりを覚えるものの、なにごともないみたいに桜餅を頬ばる顔を見ると問いかける言葉も見つからない。 「はると正治さんはよく似てるよねぇ」 「名前? じいちゃんの文字をもらったから」 「ちっがうよ、顔、顔立ちが似てる。でもそういうちょっとぼけた性格も似てるかもね」 「ぼ、ぼけてるとか、失礼なやつだな」  お茶を吹き出して笑い出す朱嶺の反応に暁治の頬が染まる。ムッと顔をしかめるとさらに腹を抱えて笑い、妙なツボにはまったのかしばらく大笑いされた。  ひとしきり笑うと今度は長命寺の餅にかぶりつく。楽しげなその横顔に少しばかり不満はあるが、暁治も桜餅を摘まんだ。 「美味い」 「うんうん、美味しいねぇ」 「田舎はいいな。のんびりのどかで」 「都会は疲れるの?」 「そうだなぁ、なんだか忙しないよな」  こうしてのんびり景色を眺めてお茶を啜ることなどまずないなと暁治はほっと息をつく。ここへ来る前は毎日なにかに追い立てられるようでカリカリとしていた気がした。それがいまはどうだろう。  夜はぐっすりと眠れて朝はすっきりと目覚める。起きたら散歩にも出るし、気持ちが穏やかだからキャンバスに向かうのも辛くない。 「ずっとここにいればいいよ」 「スローライフってやつだな」 「田舎暮らしも慣れれば快適だよ」 「まあのんびりばかりもしていられないけどな。来月になったら学校も始まるし」 「そっか、そうだったね。先生、頑張って」 「プレッシャーかけるなよ」  常勤の教師とは違うけれど暁治は初めて学校に勤める。少なからず緊張はあり、どうしていくべきか考えるところもあった。同じ美大に通っていた友人に連絡を取って話を聞いたり、お世話になった恩師に連絡を取ってみたり。学校で使っていた本を送ってもらいもした。 「お前は今度、何年生?」 「えっ? んーと、二年、生、かな?」 「なんだよその半端な言い方」 「あっ、もう少ししたら桜は見頃かな?」 「ん? そうだな。もっと咲いたら花見をするか」 「うん、しようしよう」  賑やかなご近所さん、緩やかに流れる日常――初めはなにも考えずに暁治はここへ来た。それでもいますぐ傍にあるこれらに感謝したくなる。この場所を遺してくれた祖父に礼を言わねばとも思う。  新しい一歩を踏みしめれば、固く閉じていた蕾が花開くような清々しい気持ちになった。

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