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第六節気 穀雨 霜止出苗(しもやんでなえいづる)

 昔はこの町でも田んぼで稲の苗を育てていた。しかしいまではパイプハウスで育苗するのが主流らしい。水の管理や温度、病害虫の駆除などを行いやすいためなのだと、豆知識のようなものを石蕗(つわぶき)に教えてもらった。  なぜ米の話になったのかと言えば、一人暮らしの暁治(あきはる)に、彼が米を分けてくれると言ったからだ。  自宅からほど近い場所にある稲荷神社は、遡ると数百年と歴史がある。この町で一番大きく、いまも町の人間が管理している社なので氏子が多い。  中でも米農家の割合が高く、お供え物、奉納と称して持ち込まれるものには収穫した米が多い。  石蕗の家族は隠居した祖父と神社に仕えている両親、隣町の大学へ通っている姉がいた。けれど大家族というわけではないので、氏子へ奉納米を配っても、家で食べきれないのだと言っていた。  居候のシロクロに愛犬もいるようだが、子供に犬一頭ではさほど頭数には入らない。  それでもそこに食べ盛りな若い暁治と、大飯食らいの朱嶺(あけみね)が加われば、少しは消費になるだろう。町が米を作っているので米屋で買ってもかなり安いのだが、いただけるものはいただいておこうという魂胆だ。  夕刻、学校帰りのバスを降りると、そこから数分の場所にある稲荷神社へ向かう。下から石階段を見上げれば赤い鳥居が見えて、そこを上っていけば参道にたどり着く。その両脇には二匹の狐が座っていた。 「ごめんください!」  拝殿で参拝を済ませてから社務所を覗くと、丁度人が離れていたのか、暁治の声に慌てたように巫女さんがやって来た。息子の優真に用があってきたことを伝えれば、話が通っていたのか母屋へと通された。 「先生、お待ちしていました。わざわざ来ていただいてすみません」 「いや、いいよ」  玄関前に立つと、示し合わせたようなタイミングで戸が開いた。それに暁治は少し肩を跳ね上げてしまい、自分を出迎える石蕗に苦笑いを返してしまう。それでも気分を害する様子もなく彼はやんわりと笑った。 「お米は納屋の冷蔵庫にあるので、裏手へ回ってもらっていいですか?」 「ああ、今回はありがとうな」 「いえ、こちらこそ。美味しいお米も食べずに古くなってはもったいないですからね。氏子さんや親戚へも配っているんですけど」 「わりと色んなものがお供えされていそうだな。米や酒だけじゃなくて、ここは山だけじゃなくて海も近いし、食べ物に困らなくていいな。……って、うわっ」  いつになく困り顔で笑う石蕗に気を取られていたら、角を曲がった途端に腰辺りに衝撃を感じた。それは衝突するような重量感。けれどそれを確かめようと暁治が視線を落とすと、ワンッとひと鳴きする犬の声が響いた。 「あっ、ゴンスケ。駄目ですよ。先生は遊びに来たんじゃないんですからね」 「犬、いるって聞いてたけど、でっかいなぁ」 「すみません。この子は人が好きなのでいつもこの調子で」  細い尻尾をぶんぶんと振っている大型犬の体高は六十センチほどはあるように見える。長めのマズルと垂れた茶色い耳。白と黒と茶色の毛色で機敏そうな引き締まった体型をしていた。ビーグル犬にも似ているが大きさは倍くらいだ。  じっと見つめ返せば嬉しそうに笑っているようにも見えた。 「これはなんて犬だ?」 「ええ、フォックスハウンドです」 「……それは不敬じゃないのか、稲荷神社として」 「母が狐って名前についてるからと、意味をよく理解しないまま連れ帰ってきて」  愛犬が狐ハンターだなんてなんの因果だと思うけれど、愛嬌のある顔で見上げてくるこの犬にはなんの罪もない。暁治の腰に前脚をかけたままのフォックスハウンド――ゴンスケの頭を大きく撫で回してやる。  しかしそれからぐいぐいと遊びに誘われて、三十分も庭で戯れることになった。運動量がある犬種だったようで、散々振り回されて縁側で息をついた時には、暁治はどっと押し寄せた疲れにうな垂れた。 「お米だけでなく、犬の面倒まで、重ね重ね申し訳ありません」 「大丈夫だ。……うん、そうだ。米代だと思えば安いくらいだろう」  縁側に五キロの精米が米袋に二つ。男二人に子供一人、案外あっという間になくなるものだ。なくなる頃にまた声をかけてくれると言うのだから、このくらいの運動、しなくては罰が当たる。  だが次に来る時は朱嶺にも持たせねばと、用事があると逃げ帰った後ろ姿を思い返した。いつも暁治の周りをウロウロとしている男に、なんの用事があるのだろうと思うが、いまだに詳細不明だ。 「そう言えば、石蕗は朱嶺と昔から親しいようだけど」 「おや、なにか興味が湧きましたか?」 「えっ? いや、興味というか。あの男はよくわからないなと思うことが多くて。いまだにどこに住んでいるかも知らないし」 「ふむ、あれは存外普通の男ですよ。住んでる場所はわりと近所です」 「近所って、どこだよ。……それよりもあいつ、かなり神出鬼没じゃないか? 学校でもふらりと顔を見せにきたと思えば、まったく顔を見ないとか」  いるはずなのにまるでそこにいないような気になる。暁治の授業の時は見かけるけれど、それ以外は気配をあまり感じられない。それでいて放課後になるとふらりと部室へやってくる。  あれだけ目立つ容姿と性格をしていて、目に留まらないことがあるなんてと不思議でならなかった。しかしそんな暁治の様子にふっと小さく石蕗は笑みをこぼした。 「俺はいまなにかおかしなことを言ったか?」 「いえ、あなたが気にかけてくれるなら、きっといまよりもっと、姿を見せると思いますよ」 「あれは珍獣かなにかか?」 「……っ、あはっ、珍獣、いいですね。ぴったりです」  訝しげに眉を寄せた暁治の反応に、こらえきれないとばかりに声を上げて笑った石蕗は、涙目になった目元を拭う。ここまで笑われてしまうと、ひどく恥ずかしいことを言っているような気にさせられた。  ますます眉間にしわを寄せたら、やけに愉しげな光を含んだ瞳で笑みを浮かべる。 「花開く、そんな日が来るといいですね。まあ、それはだいぶ先のような気がしますが」 「悪いが、言っている意味がよくわからない」 「そうですね。あの男もおそらくまだよくわかっていないんですよ。まだ少し、時間が足りないんでしょう。なくしてしまったと受け入れるのは、時間がかかるものです」 「なくしたもの、朱嶺の……あ、じいちゃんか? あいつもじいちゃん子みたいだったしな」 「ええ、それはもう大層、懐いていましたね」 「そうか」  それは暁治がこの町から離れていたあいだ分の時間なのだろう。しかしそれ以外の隙間は考えられないはずなのに、随分としみじみした声で語られて、時折見た横顔まで浮かんでくる。  遠くを見るような寂しそうな表情。そしてそれとともに、ふと耳元で声が聞こえたような気がした。  独りぼっちは寂しかろう――こっちへおいで。  霜が降りるような凍えた気持ちに、そう言って温かい手を差し伸べてくれたのは、一体誰だったのか。どうしていま、その声が聞こえたのだろう。  幼い頃の記憶はなぜか暁治の胸をひどく騒がせた。

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