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第十節気 夏至 末候*半夏生(はんげしょうず)

 長雨が続く季節、田舎町は少しばかり風情があるように見える。しとしとと降る雨の中、田んぼでカエルが跳ねたり、あじさいの葉の上にカタツムリがいたり。なにより都会と違うのは草葉の匂いがすることだ。  それは蒸し蒸しとした湿気と熱気ばかりの街中では感じられない自然の香り。この町も湿度は高いけれど、空気が違う。空気がとても澄んでいるのだ。 「あれ、今日は八百屋さんお休みか」 「今日はほら、半夏生だからだよ」 「はんげ、しょう?」  バスの窓から見えた、いつもお世話になっている青果店がシャッターを閉めていた。それを目に留めて振り返った暁治(あきはる)に、並んで立つ朱嶺(あけみね)が人差し指を揺らしながら応える。  しかし彼の口から出てきた言葉は聞き慣れない単語で、眉を寄せて首を傾げるしかできなかった。 「雑節の一つだよ。節分とか彼岸とか土用みたいな。日本の文化から生まれた暦日。その中でも半夏生は物忌みの日とも言われて、天から毒が降るから井戸に蓋をしなさいとか、その日に採った野菜は食べちゃいけないとか、そういうの」 「ふぅん、昔ながらだな」 「地域によってはその日に食べるものも色々あるみたいだよ。次で下りる?」 「いや、八百屋が休みならまっすぐ帰ろう」 「なにを買う予定だったの?」 「このあいだ、桃が桃を食べたいって……なんかややこしいな」  先日のことだ。テレビを見ていた桃が珍しく興奮気味に画面を指さした。どうやら七月に入ると果物の桃が多く出回るようで、それは特集番組だった。  あれがいま隣にいる朱嶺だったら、暁治は適当に受け流していただろう。しかしいつも大人しい彼女からのリクエストとあらば、応えないわけにはいかない。 「えー、桃ちゃんがそんなおねだり? 珍しい」 「だろう。まあ、それはまた後日、だな」 「僕も食べたい!」 「その時にいたらな」 「なにそれ、誘ってよ~! ……って、痛っ!」  駄々っ子みたいに腕にしがみついてくる、食いしん坊の額を指先で弾いた。大げさに痛がるその顔に暁治が吹き出すように笑えば、頬がぷくりと大きく膨らむ。  これで三世紀以上生きていると言うのだから驚き以外のなにものでもない。年を重ねるごとに退行しているのでは、などと考えても仕方ないだろう。ふて腐れている横顔をじっと見つめたら、視線が気になるのか目線が持ち上がった。 「どうしたの?」 「いや、やっぱり三歳児かなって」 「はるぅ? もう、信じてるんだか、信じてないんだかわからないね」 「そんなこと言ったって見た目は普通だし、貫禄もないしな」 「昔のはるはメソメソしてて可愛かったのに」 「それ、いつの話だよ」  そういえばなにがきっかけで彼と出会ったのだろうと昔を振り返る。いつの頃からか祖父の家に出入りしていて、気づけば毎日のようにやって来た。けれどそれはいまとなんら変わりがないような気もする。  昔から神出鬼没だったのか。そんなことを思いながら暁治は少し遠くへ視線を投げた。最初に手を伸ばしてくれたのは、朱嶺だったのかどうか、正直あまり記憶が定かではない。  泣きべそをかいていた暁治に手を伸ばしてくれた人。記憶をたぐり寄せると、それはもっと大人びていた、ようにも思える。  独りぼっちは寂しかろう――そう言って手を握ってくれたあの人は、誰だったのか。あれもまた隣にいる彼なのか。しかし思い返せば返すほど、見た目がちぐはぐだ。  あの人と、毎日一緒に遊んでくれたあの子には年の差がある。この男はどういう時間の流れで成長しているのだろうと、暁治は小さく唸りながら首をひねった。  しかしいつぞやの言葉を思い出す。このくらいが小回りが利いて良かった、などと言っていたような。 「もしかして伸び縮みするのか?」 「え? なにが?」 「あっ、いや、なんでもない。……着いたな、下りるぞ」 「はーい」  こういったよくわからないことは考えるべきではない。一瞬にして暁治の心のシャッターが閉まる。ついでに鍵をかけてしまえと記憶の奥底へと押し込んだ。 「雨、上がってる!」 「雨上がりは」 「雨上がりは空気が澄んでて気持ちいいね。緑の匂いがする」 「えっ? ああ、そうだな」  口に出そうとした言葉が重なって聞こえて、胸がドキリとした。自分が感じていることを同じように感じている。それに暁治は少しばかりうろたえてしまった。  いままで周りに、情緒的とも言える感性豊かな人はあまりいなかった。友人も親や妹も大雑把で、思ったことを口にすると笑われることが多い。きっといま同じことを言ったら、土臭いとでも言われそうである。  そういえばあの子も、一度も暁治を馬鹿にすることはなかった。一緒に驚いてくれて、一緒に感動してくれて、それが懐いた一番の理由であった気がする。 「いかんいかん、シャッターが開きそうになった」 「え? シャッターがどうしたの? はる、今日はいつにも増して独り言が多いね」 「なんでもないよ」  きょとんとした表情で見上げてくる顔から視線を外し、そそくさと暁治は家へと向かう。その後ろを朱嶺は「よっと、よいっしょ、やぁ」などと、かけ声を上げながら着いてくる。  騒がしいやつだと振り返れば、水たまりの上をまたいだり跳ねたりしていた。いつもの着物姿ではできない芸当だ。 「あれ? 誰だ?」  日の暮れかけた夕刻。門扉の前に人の後ろ姿が見える。その人は閉まった扉の前でウロウロして、しまいにはぴょんぴょんと、垣根の向こうを覗くように飛び跳ねている。  怪しい人物に警戒心が湧くが、近づくと気配を察したのかぱっとこちらを振り返った。 「暁治っ!」 「えっ? ね、猫屋?」 「キイチだよ!」 「いや、……どっちもお前の名前だろう」  不審人物――もとい猫屋喜一はこちらを見るなり瞳を輝かせた。彼は先日、顔を合わせたばかりの一年生。昔この家に居着いていた猫だと言い張るが、正直なところあまり暁治は信じていない。  それでも言い分を頑として譲らないので、右から左へ流しているところだ。 「なにをしてるんだ?」 「懐かしくなって来てみた! じいちゃんがいた頃から変わんないなっ」 「へぇ、そうか」  なんと返していいものかと苦笑いが浮かぶ。しかしこの人懐っこさは既視感がある。あの猫はこの家の者にはひどく懐いて、にゃーにゃー鳴きながら家中をついて回っていた。 「はる、誰?」 「ん? ああ、一年生の……」 「お前こそ誰にゃ! 人間じゃないにゃ!」 「え? なんでいきなり猫語?」  威嚇するみたいに両手を開いて爪を見せる猫屋に、思わず突っ込みが入る。しかし彼は隣に立つ朱嶺に気を取られていた。  そこでふと暁治は考えた。昔からこの家に出入りしていた朱嶺のことを知らない、と言うことは、この家の猫というのはやはり嘘か――けれど類似している点が多いのが悩ましい。 「なんだ、化けてから大して経ってない猫又じゃないか。あ、君、……はるを泣かせた猫でしょう? お前がいなくなったって、はるは一晩中、泣いてたんだから!」 「……あ、あきはるぅ。おれがいなくて寂しかったのか? ごめんにゃ、もうどこにも行かないにゃぁ~っ」 「わわっ! ちょっと待て! なんの話だ!」  ビシッと朱嶺に指先を向けられて、猫屋は目を見開き、驚くより先に感動をあらわにした。そして突進するみたいに暁治に駆け寄ってくる。勢いよく抱きつかれてよろめくけれど、抱きついた猫屋は木にしがみついた猿のようになっていた。 「あっ! なに勝手にはるに抱きついてるの!」  賑やかできっと楽しかったのだろうな――なんて祖父がいた頃に思いを馳せたりもしたが、賑やかと言うより、これはやはり姦しいがぴったりだ。正面には猫がしがみつき、背後にはなにやらよくわからない自称三百歳がしがみつく。  早く家に帰りたい、と思わずにいられない徒歩数秒の夕暮れ。

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