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第十三節気 立秋 初候*涼風至(すづかぜいたる)

 ひゅるりと、冷たいものが頬をなでた気がした。  暁治(あきはる)は思わず足を止めて後ろを振り返ったが、背後には誰もいない。  首を傾げると、またふわりと首筋をなであげられる。ほんのり冷たい風だ。くんっと匂いを嗅ぐと、少し香ばしい匂いがする。どこかで火でも焚いているのだろうか。  まだ陽射しは真夏の風情なのに、八月に入って暦はもう秋なのだと気づく。  すでに何年もここにいるような気がするのだが、まだまだそんなものなのかと、知らず口の端があがった。あまりに馴染みすぎていて、笑いが出てくる。  彼はポケットからハンカチを取り出すと汗を拭い、手にした袋を握り直すとまた歩き出した。袋の中は、先ほどバス停そばの駄菓子屋で買った当たりつきアイスだ。ぼんやりしていると溶けてしまうと、少し足を速める。  バス停から家までは十分ちょっと。田畑の間に民家が見える、ちょっとした田舎の道だ。舗装されてない道は歩きづらいが、毎日歩くうちに慣れてしまった。  夏とはいえ、部活帰りにスーパーに寄ると、そこそこいい時間だ。夏休みだというのにちょっとみんな頑張りすぎだと思う。家までの最後の角を曲がったところで、暁治は小さな声を耳に留めた。  最初は鈴の音かと思った。だが繰り返されるにゃあにゃあという声は、まだ幼い猫のもの。ふと目をやると、電柱のそばに小さな影がうずくまっていた。  小学校高学年くらいだろうか。小さな肩幅は、まだ少年のもの。道端の電柱の近くにしゃがみ込んで、目の前の小さな箱を見ていた。  この近くの子だろうか。見かけない顔だ。  周囲は陽が沈みかけて薄ぼんやりしているのに、少年の周りだけ切り取られたようにぽっかり浮かんで見える。  彼の近くに寄ると、背後から箱の中を覗き見る。案の定、小さな白い子猫が一匹、中でミイミイと鳴いている。ようやく目が開いたくらいだろうか。  暁治は少年の隣に座り込むと、横から子猫を抱き上げた。見上げると、民家の塀がわずかな日陰を作っていて、子猫のいた箱にも陰を落としていた。だからといって、この暑さではそう長く生きられないだろう。人通りもない道だ。これから夜を迎えれば、なおのこと。  手にしていた袋から、アイスを取り出す。崎山さんが気を使って入れてくれた保冷剤の入った袋をハンカチで包むと、子猫と一緒に抱き抱えた。  空いている手にはアイスの棒。暁治はどうしたものかと一瞬だけ考え、無言で彼の行動を見ていた少年に、ほれと差し出した。 「溶ける前に食え」 「おまんはいいのか?」  思ったより低い声。だが少し舌ったらずだ。 「いつからいたのか知らんが、暑かったろ。もう暗くなるし、こいつは俺が預かるから、早く家に帰れ」 「それが、家が分からんのだ」 「わからんって?」 「うむ、迎えが来ると思ったんだが、どうやらよこし忘れたようでな」  状況がいまいちわからないが、深刻そうな表情とは裏腹に、少年はけろりとそう言うと、にいっと顔中をくしゃくしゃにして笑った。 「う~ん、とりあえずもう暗くなるし、うち来るか?」  駐在所まで連れていくとして、その道のりを考えると、弱った子猫連れはよろしくないだろう。 「そうだな、行ってやってもいいぞ」 「えらそうだな」  だが、嫌味ではない。 「お、当たりだ」  少年は食べていたアイスの棒をこちらに向け、嬉しそうに当たりを見せびらかすと、先に立って歩く。軽やかな足取りはでこぼこな砂利道を滑るようで、見ていて微笑ましい気分になる。 「あ、はる!」  呼ばれて視線を向けると、ちょうど家の軒先をくぐるところだったらしい。朱嶺(あけみね)がバケツを持った手を挙げた。 「と?」  暁治の前を行く少年に気づいたらしい。きょとんっと目を瞬かせた。 「出迎えご苦労」  彼は朱嶺の正面に立つと、歯を見せて笑った。 「えっ?」  まぁ、そりゃ驚くよな。暁治はくすりと息をこぼすと、少年の後ろに立った。 「迷子らしい。もう遅いし、家から駐在所に連絡しようかと思ってな。なんでも来るはずの迎えとすれ違ったみたいだ」 「あ~、そうなの?」  やけに歯切れが悪い。もしかして。   「人じゃない?」  顔を近づけ、こそりと尋ねると、神妙な表情で頷きが返る。どうやらまた朱嶺のお仲間らしい。  最近増えるお仲間来訪に、慣れつつある暁治だ。なるほどと、あっさり納得する。なら駐在所への連絡も不要だろう。 「ごめんね、今迎え準備してるところだったんだ。えぇと、……」 「なんだ忘れたのかあけみー、つっくんだろ?」 「あ~、うんうん。つっくん、おかえり」 「なんだ、知り合いか」 「うん、知り合いというか」  つっくんに抱きつかれて、微妙な表情を浮かべる朱嶺。 「親友って、やつだな。ほらマブダチ?」  よじよじと、朱嶺の背中をよじ登ろうとしながら、つっくんがそんなことを言う。当たり棒を口にくわえているせいで、半分くらいモゴモゴと聞き取りにくい。 「お~い朱嶺、まだそっちかかってるのか。まったく日付間違えるとか、これだから(からす)は――にゃっ!? もう来てるにゃ!」 「おぅ、もしかしてキイチじゃねぇか。久しぶりだな」  玄関先の話し声に気づいたらしい。家の中から出てきたキイチが、つっくんを見て目を丸くした。 「なんだ、うちの客だったのか」 「みたいだな」  暁治が首を傾けると、つっくんも同じ方へと首を倒す。キイチが来て思い出したが、軒先で騒ぐのは近所迷惑だ。家長権限、入るぞと、家の中を指差した。  猫のことがわかるのは、やはり猫だろう。子猫をキイチに預けると、汗ばんだ服を着替えて作務衣になる。朱嶺もよく着ているが、特に夏は涼しくていいと思う。 「あ、はる、今日は僕が夕飯作ったからね!」  台所からひょこりと朱嶺が顔を出す。手には丸いお玉を握って、白い割烹着を着ている。 「へぇ、珍しいこともあるもんだな。作れたのか」 「へへん、僕の得意料理だよ! 肉じゃが」 「肉じゃがかぁ、そりゃ大したもんだな」 「えへへ~。と言っても、これしか作れないんだけどね!」  作れるのがそれだけなら、確かに得意料理だろう。褒めた後に言うなと思ったのだが、彼の照れた赤い頬を見て、なんとなく口を閉じた。普段褒めたことがない自覚もあり、ちょっと申し訳ない。 「美味しい肉じゃがで、はるを悩殺するの。僕っていいお嫁さんになれるかな」 「さぁ」  あっさりと答えてやると、朱嶺はしくしくと泣き真似をし出した。帰ったばかりで冗談に付き合うのはとてもめんどくさい。 「はるってばひどい! でもそんなはるも好き」  よよっとしな垂れる朱嶺の横から、つっくんがひょいと顔を出す。 「はるの席はどっちなんだ? お、こっちか」  どうやら皿を持ってきてくれたらしい。後ろからついてきた桃に指を差されて、いそいそと机の上に並べ始める。  器の横には生卵。すき焼きのようにつけて食べる。宮古家定番スタイルだが、その伝統は辻森家から受け継がれていた。  昔友人の家では生卵を添えないと知り、ずいぶんと驚いたものだが、その家のスタイルなどそれぞれだ。美味ければいい。そして卵は美味い。反論は認める。 「ちゃんと豚肉と牛肉は半々にしたよ」 「おぅ、ありがとう」  そしてこれも伝統だ。昔祖母が豚肉で作った肉じゃがを出したら、祖父が拗ねたことがあった。普段出されたものはなんでも食べる祖父も、好物の肉じゃがは譲れなかったらしい。  だが同じく豚肉を譲れなかった祖母は、以来両方入れることにしたらしい。出汁は気にしない。肉は肉だ。 「あ、つっくん! 牛肉ばっか食べない。なくなっちゃうでしょ」 「肉じゃがは牛に決まっとるだろ」  つっくんは牛派のようだ。暁治もどちらかといえば牛派だから気が合いそうだが、今は肉のライバル。 「待て、全部食うな!」  また賑やかになりそうだなと、最近それが少し楽しみな自分がいて、暁治は声を立てて笑った。

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