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第十六節気 秋分 末候*水始涸(みずはじめてかる)

 休日の朝に早起きをすることが、随分と暁治の中で定着してきた。朝のラジオ体操に、一週間分の掃除、洗濯。早く起きなければ、自分の時間が取れない。もはや早く起きるのは必然と言っていい。  今日は以前、米を分けてくれた先輩教師の田中の実家で、稲刈りだ。大きな田んぼはコンバインで一掃するが、頼まれたのは個人用とのこと。  ひんやりとした風が吹き抜ける田園で、大きく伸びをしてから、暁治はどこか色の薄くなった青空を見上げた。それは夏の陽射しとはまるきり違う。  秋雨という言葉もあるので、雨の多い季節でもあるが、今日は秋晴れという言葉がぴったりだ。 「はるー! 手が止まってるよ」 「大目に見ろよ。お前みたいに長生きしてないから、経験値がないんだよ」  小さな田んぼと言っても、手刈りでの作業は骨が折れる。ずっと屈んだ体勢で、背中が折れ曲がったような気分にさせられた。  田んぼの半分をさくさくと、手慣れた手つきで刈った稲で埋めていく、朱嶺の背中がいつの間にか遠い。振り返った顔に、暁治の顔が苦々しくなる。 「早く終わらせないと、お日様のでているうちに終わらないよ」 「え、もうだいぶ終わっただろう」  田中の話ではこの田んぼは一ヘクタール。百メートル四方の大きさだとか。それを朱嶺が半分、暁治が残った半分のさらに三分の一。残りはあとひと息だ。けれど首を傾げた暁治に、肩をすくめた朱嶺が息をつく。 「まだこれからだよ。刈ったのをまとめて天日干ししなくちゃ」 「先は長いな」 「お礼にお米をもらえるんだから、頑張らないと」 「消費するのお前たちだろう」  今度は暁治が息をつく。そしてエンゲル係数のトップに立っている男の背中を、のんびり追いかけた。残りの三分の二も、やってもらおうという魂胆だ。  まだ二十代半ば、歳だとは思いたくないが、底なしの規格外たちに比べればまだまだ若い。ため息交じりに、そんなことを思いつつ、暁治はかなり馴染んできた鎌を稲の根元へ下ろす。  それから陽射しが高くなった頃に、稲を束ねて稲架というものに干した。稲も束になるとなかなかの重さ。腰を曲げっぱなしの稲刈りから、上がり下がりの重労働。  明日は腰痛になってもおかしくない。こうなると仕事のあとのご飯は美味いものだ。 「暁治ー! ご飯にゃ!」 「おお、そっちは終わったのか?」 「ばっちりにゃ」  ようやく一段落したところで、大きな田んぼのほうで手伝っていた、キイチがやってくる。彼の両手には大きな風呂敷包みの重箱。今朝、暁治が起きる前から、居候二人で作っていたものだ。  田んぼの脇、空き地にレジャーシートを敷いて、重箱を開く。中身はおむすびにサンドイッチ。唐揚げに、きんぴら、卵焼きにポテトサラダなどなど。男所帯に倣ってどれも大盛りだ。  最近の二人は張り合っているのか、料理の腕をめきめきと上げている。元々キイチはそれなりに作れる方で、朱嶺は肉じゃがオンリーだったのに、レシピが増えた。  朝や晩に二人で交互に作っているので、暁治はかなり楽をしている。 「暁治、からあげ」 「ん、これはキイチか?」 「そうにゃ」  左隣に座ったキイチが、一口大ほどの唐揚げを差し出してきた。促されるままに、暁治はそれをぱくりと口に含む。すると口の中に、じゅわっと肉汁と旨味が広がった。  もも肉はぷりぷりで柔らかく、衣もサクサクでかなり美味い。 「はる、こっちもあーん」 「ん? ああ、うん」  今度は右隣の朱嶺にサンドイッチを差し出された。レタスとハムが挟まったそれを口にすると、マスタードがツンとする。少しばかり塗った量が多いようだ。しかし許容範囲だったので、そのまま一つ完食した。  だがさらに右と左から、次々におかずを向けられて、自分で摘まむ暇がない。 「待て、お前たち。ちょっとゆっくり飯を食わせろ」  両方から箸を向けられ、さすがに暁治はそれから後ずさる。二人揃って首を傾げられるが、シートの上に置いた皿に指を向けた。 「俺はいいから、食え」 「ええー、僕の手ずから」 「駄烏より、おれのを食べるにゃ」 「二つもいっぺんに食えるか!」  横からおむすびと卵焼きを、口元にぐいぐいと寄せられる。とっさに彼らの手を掴んだ暁治は、二人の口元にそれらを押しつけた。 「おやおや、両手に花ですな。猫屋、麦茶を忘れてるぞ」 「全然、花じゃないですよ!」  ふいに聞こえた声に顔を上げると、にこにことした田中が、ポットを手にやってくる。傍まで来た彼は、ポットと紙コップを暁治の前へ置いた。 「噂には聞いてましたが、ほんとに三人仲良しで」 「噂ってなんですか?」 「宮古先生を巡って朱嶺と猫屋が火花を散らしてるってね」 「それって」 「学校中の噂ですな。いやはや、田舎ですから」  はっはっは、と笑う田中と裏腹に、暁治の顔はじわじわと熱を帯びてくる。それでなくとも美術部員に、賭けの対象にされているというのに。  それが校内で噂になっているということだ。 「微塵も事実じゃないです!」 「えー! はる酷い」 「おれの愛が伝わってないのか!」 「まだ、ってところですな。自分は朱嶺に賭けてます」 「田中先生まで!」 「はっはっは、午後は草刈りお願いしますね。夕飯はちらし寿司だと家内が言ってましたよ」  またまた笑い声を上げた田中は、言及を避けるようにそそくさと、来た道を戻っていってしまった。ついでにまた、仕事を押しつけられた気もするけれど、それどころではない。  両側からの視線が痛い。  とはいえキイチはまだ幼い印象で、弟のような気がする。朱嶺は無邪気な感じがあって、子供っぽくて。少し意識はしているようだが、まだまだ恋愛に発展していない。  けれど以前からの疑問はあった。ふとした瞬間大人びた顔をする。それが本当の素顔なのか、時とともに子供っぽくなったのか。  初めて会った時はいまより大人の姿で、祖父に紹介された時は、さほど年の変わらない子供の姿だった。三百年も生きていたら、やはり伸び縮みするのかと、変な納得の仕方になる。  こうして傍にいると知りたいことが増えていく。石蕗に言わせたら、意識した瞬間から恋ですよ、なんて言われそうである。 「はる? どうしたの?」 「いや、なんでもない」 「なんでもないってことはないよね」 「なんでもないって」  くすくすと笑う朱嶺に暁治はついムキになった。けれど嫌な顔をもせず、彼はやんわりと目を細める。その見透かすようなまなざしが少し癪に障った。 「はるって子供の頃から変わってないね」 「成長がないって言いたいのか?」 「違う違う。なにか言いたいのに、言えない時の癖。変わらないなぁって」 「え?」  訝しげに首を傾げれば、笑みを深くして朱嶺は自分の腕を指さす。それにつられて視線を向けると、暁治の指先が彼の袖を摘まんでいた。無意識のその行動に気づいて、ぱっと手を離したが、いまさら誤魔化しもできないだろう。 「はるってば、可愛い」 「う、うるさい! 俺はいつまでも子供じゃないぞ。記憶の中の俺と一緒にするな」 「大人のはるも十分素敵だよ」 「取って付けたような言い方……っ」  文句を言おうとした口がふいに塞がれた。あっという間に近づいてきた、朱嶺を止める余裕がなかった。驚いて固まっていると、ちゅっと小さな音を立てて、唇が離れていく。  柔らかなその感触。触れたのは初めてなはずなのに、どこか既視感がある。 「ああっ! おれの暁治になにするにゃー!」  横からキイチに抱きつかれつつも、暁治は昔の記憶を掘り起こそうとした。しかし出来事が昔過ぎて、どうしても思い出せない。けれど触れた感触だけが、はっきりと残っている。  自分のファーストキスが、得意そうに笑っている、この男かもしれないという事実に気が遠くなった。 

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