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第十七節気 寒露 次候*菊花開(きくのはなひらく)

 朱嶺の向かった先は幽冥界というらしいのだが、朱嶺のたどるルートはただの人間でしかない暁治は利用できない。 「うつつと別の世の狭間には、緩衝材のような世界があって、そこから行くでござる」  暁治たちが暮らす世界、うつつと、それ以外にもいくつかの世界があるらしい。その別世界同士を繋ぐ狭間の世界を通って、別の世界――幽冥界に行くと言う。 「カクリヨ、と言うのでござる」  書き方が判らなくて鷹野に尋ねると、手のひらに文字を書かれた。 「『幽世』か?」 「隠された世界ということで、『隠り世』ともいうでござる」 「なるほどなぁ」 「薄っぺらくて、とてつもなく広がっていて、どこまでも増殖する、一言で説明するには難しい場所でござるよ」  鷹野のよくわからない説明を聞く横で、キイチの作った朝食をタッパーに詰めると、炊き立てご飯を俵に握る。お握りを箱に並べてお弁当と水筒を鞄に入れた。  神さまたちの会合場へは、色々な行き方があるらしい。崎山さんは風呂敷包みと一緒に、封筒を一通、よこしてきていた。 「幽世列車のチケットでござるな」  開けるとちょうど七枚。行きに三枚、帰りに四枚。どこまで見通されているのか、準備のよさに慄いた。どうやら珍しいチケットらしく、鷹野はひどく驚いていた。  朝から山道を上って、稲荷神社の上の社に行く。考えてみれば案内が鷹野という辺り、不安にならないでもないのだが、来てしまったからには仕方ない。  小さな社を三人で囲んだ。お供えを並べて、鷹野が扉を開くと、中には小さな鏡が祀られている。 「さぁ、行くでござる」 「行くって、どこから?」 「もちろん、ここからでござる」  鏡を覗き込んでいたのがよくなかったのだろう。いきなり背中をどんっと押され、暁治は前へとつんのめった。  くるりと視界が一回転して、尻餅をつく。  やはり鷹野を信じるのではなかったと、後悔しつつ彼が目を上げると、耳をつんざくような大きな汽笛が聞こえた。 「着いたでござる」  そこは、駅のホームだった。 「次は幽冥界~。幽冥界~」  狭い通路を車掌がせかせかと歩いて行く。列車は混み合うほどではないのだが、そこそこ席が埋まっていて、彼らは運良く前後の席を確保することができた。  座席を回転させて向き合わせると、早速弁当を広げる。そろそろお昼近くて、朝を抜いてきた身としては、かなり辛い。おまけに山道まで上ったのだ。  山道を上った先にこんなものがあるとか。世の常識が測れない事態だというのに、暁治は意外に冷静な自分に驚いた。思えばこの土地に越してきてから色々あった。耐性ができたのかもしれない。 「手作りのお弁当とは、いいですな」  声をかけて来たのは、恰幅のよい老齢の男性だ。先ほど他が満席だと、彼らの席に混ざりに来たのだ。身なりもよく、白い髭も品よく整えられている。 「おれが作ったのにゃ! 美味いにゃ!」 「ほぉほぉ、確かにどれも美味しそうだ」  ふぉっふぉっと、大きなお腹を揺らして笑う。列車の進行方向に座った暁治は、隣の紳士にタッパーを差し出した。 「よろしければ、いかがですか」 「やぁ、これは催促したようで申し訳ない。ではこちらをひとつ。……おかかですか。醤油もしみて、美味いですな」 「薄いのと厚いのを刻んだのを混ぜてるにゃ。うまうまにゃ」  キイチが得意げに胸を張る。これも美味いにゃと、紳士にネギ味噌を塗ったやつも差し出した。昨夜の残りと作り置き惣菜も詰めて来たタッパーは、急いだ割にはなかなか豪勢だ。  和気藹々と食事をしていると、いきなり大きく列車が揺れた。カーブしたらしい。風呂敷包みが膝から落ちそうになり、暁治は慌てて抱え直した。 「それは菊、ですかな」  紳士の言葉に膝の上を見ると、風呂敷包みがめくれて、下にある瓶が見えた。透明な水の中に、白や黄色、朱色の菊の花が浮かんでいる。 「なるほど、菊酒ですか」  なんで菊がと、顔に出ていたのだろう。運んでいた本人の疑問に応えるように、紳士が頷いた。 「ちょうど重陽の節句ですからな。邪気払いと長寿を祈って、菊酒を飲むのですよ」  どうやら中に入っているのは、水ではなく酒らしい。紳士の説明に暁治は、なるほどと頷いた。 「ところでみなさんは、観光ですか?」 「いえ、人に会いに……、ですかね」  いささか自信なげに暁治がそう言うと、向かいに座っていた鷹野がぽんっと膝を叩いた。 「この御仁の恋人を取り返しに行くところでござる」  ぴしりと、鷹野に指差され、暁治は固まった。 「人と妖は住んでいる世界が違うと、天狗の頭領に反対されて、兄ぃは無理やり別の相手をあてがわれることになったのでござる。聞くも涙の話でござる」 「いや、俺は単に忘れ物を届けようかと」 「そうにゃ! 勝手に自滅するのは大歓迎なのにゃが、周りの策にハマって引き離されるのは寝覚めが悪いにゃ。助けに行くのにゃ!!」  瓶を抱えて説明しようとした暁治なのだが、他二名の声が大きくて、紳士にまったく届かない。彼は大きなお腹を揺らして何度も頷くと、ポケットからハンカチを取り出して、涙を拭った。 「なんと、なんと健気な。……なるほどなるほど。実は私は商人でしてな。ちょうど天狗の婚礼道具を納めに行くところでした。これもなにかの縁でしょう。あなたがた、幽冥界と言っても広い。場所はお分かりですか?」 「いや、幽冥界という以外は……」  暁治はそう答えて首を振った。追い立てられるように出てきてしまったが、考えてみれば幽冥界というからには、かなり広い場所のような気がする。  紳士は心得たり、といった表情で頷いた。 「かしこまりました。ちょうどもうすぐ通過点になります。みなさま、ご準備なされ」 「ありがたいにゃ!」 「頼む」  理解済みらしい二名と違い、暁治はなにがなにやらさっぱり解らない。瓶を抱えて所在なげに三人を眺めていると、隣に座っていた紳士に、とんっと肩を押された。  またしても。と、思うまもなく、暁治の視界がくるりと一回転する。  何度同じ目に遭うのだろう。暁治は床に寝そべりながら、暗澹とした気持ちになった。 「あれ、はる?」  澄んだ、朱嶺の声。見上げると、そこは広い畳敷きの部屋だった。また場所移動したらしいが、目的地は違えなかったみたいだ。  まるで正月のように、黒の羽織袴を着た朱嶺が、驚いた表情をこちらに向けている。  彼はこちらへと小走りに駆け寄ると、暁治の手を取って引っ張った。視界が水平になる。  どうやら宴会の準備をしていたらしい。そこにいた面々の興味深そうな視線に、いた堪れない気分になる。一様に晴れ着を着た中に、量販店のデニムを着た暁治は、あまりにも場違いだ。 「どうしてここに?」  キョトンと、朱嶺の整った容貌が傾げられた。彼の疑問はもっともだ。 「いや、俺は届け物が……」  なんとなく彼から目をそらすと、広間へと視線を泳がせる。  祝いの席らしく、長い机の上にはたくさんのご馳走が山のように盛られ、上座には二つ、赤い座布団が並んでいる。  後ろには金屏風。ひと目見て、結婚式の披露宴だと判る。 「はる?」 「いや、別に俺は」  届け物に来ただけだと、ついでにおめでとうと言おうとした口は、朱嶺の綺麗な瞳を見た途端、それ以上動かなくなった。  目の前にいるのは同居人で、この春からこっち、散々自分を振り回した相手で、昔はよく遊んでくれたらしい、幼馴染み。  暁治は、目の前の相手をじっと見つめた。今初めて、はっきりと見た気がする。赤朽葉色の髪と、薄い色の瞳。いつも楽しそうな表情を浮かべて。思えば彼は、――そうこんな顔をしていた。どこか懐かしい。  暁治に応えるように、腕の中のガラス瓶から、たぷりと、音が聞こえた。  ――ずっと、一緒にいてくれる?  不意に幼い声が、胸の中に響く。あれはいつのことだったろう。  ついで、パタパタと扉が開くように、もやがかかっていた記憶が鮮明になってゆく。  あれは妹が生まれて、田舎に預けられたとき。周りには年の近い子どもは誰もおらず、毎日寂しい思いをしていた。  そんなときだったのだ。近所の神社の鳥居の上に、小さな烏が止まったのは。 「……なにが結婚してやろうだ」  こんなことを言いに来たのではなかったはずなのに。勝手に紡がれる言葉に戸惑いつつ、暁治はぎゅうっと、腕の中の瓶を抱きしめる。 「ずっと、一緒にいてくれるんじゃ……、なかったのかよ」  思わずこぼれた声音が聞こえたのか、目の前の相手の瞳が大きく見開かれた。

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