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第二十三節気 小寒 末候*雉始雊(きじはじめてなく)

 実のところ朱嶺たちも、すっかり忘れていたらしい。  わざとじゃないよ! と、瞳を潤ませながら謝ってきたので、暁治は少しばかりならと話を聞いてやることにした。 「だからね、幽世で旅館やるのに、なにか売りを作ろっかってなってね――あ、はる。ここもうかゆくない?」 「おぅ、大丈夫だ」 「うん、そんで桃が名物だし、うちの座敷童様と同じ名前だからこれ、いけんじゃね? って、桃ジュース売り出すことになったの」  ――でも、人間に飲ませない方がいいっての、みんな忘れててねぇ~。  そもそも基本的に人間がいないから、そこまで考えるやつがいなかったともいう。  こしこしと、背中を流しながらお気楽に笑う妖を、殺気を込めた眼差しで振り返ってやると、朱嶺はぴいっと身を竦ませた。  後から旅館にやってきた石蕗が、「これ、先生飲んでたけど大丈夫なの?」と、指摘して、初めて気づいたらしい。 「うぅっ、はるは正治さんの孫だし、知ってて飲んだのかなって」  それで収めて黙っておこうと先延ばしする辺り、とてもタチが悪い。 「さすがに食べ物にそんな地雷があるとか、気づくわけないだろ」 「ううっ、ごめんなさい。あ、じゃぁもしかして――」 「もしかして?」 「あ、ううん、なんでもな」 「吐け」 「……あのね、ここ桃ちゃんに頼めばいつでも来れるんだけど、僕らが普段いる世界とは違うから、知らず独りで来ると大変なことになるので気をつけてね」 「例えば?」 「帰ったら百年経ってたり?」 「そんな怖いとこなのか、ここは」  近所にできた温泉の感覚でいた暁治は、思わぬ情報に身を震わせる。まるで浦島太郎だ。 「ホテル龍宮城なら、幽世列車に乗れば、ここからすぐだよ」 「龍宮城はホテルだったのか」  龍宮城、つい先日なにか思った気はするが、こんなに近くにあったらしい。さすが幽世だ。確かにおもてなしの心に満ちた場所ではありそうだが。  ごく一般人を自認する暁治は、立て続けの新事実に、もう驚く気力もない。 「うちは桃ちゃんがいるから大丈夫なんだけど、よそから行く時は注意してね。まぁ、一人で行くことはないと思うけど」  行くことはないと言われても、なにがあるかわからない。ついうっかり、百年経ってしまったら大変だ。もうないかと頬をつねってやると、みぃと鳴き声が出た。声は可愛い。 「うぅ……くすん、痛いお。他はない、と思う。戻ってくる前にこっちで見つけられたら、なんとかなるんだけどねぇ」  朱嶺は頬をなでつつ立ち上がると、さぱさぱと、暁治の背中にお湯かけた。暁治は少々考え込んだ後、顔を上げて彼を見上げる。 「ほんとに食った分だけ寿命伸びるのか?」 「う~ん、最近は食べた人間自体いないからわかんない。はるが飲んだのジュースだし」 「そうか……」 「はる?」  なにやら難しい顔で考え込んだ暁治見て、朱嶺はこてりと首を傾げた。 「まぁ、食っちまったもんは仕方ない」  あっさりと。暁治はやれやれと両手を上に上げて伸びをする。考えても、どうにもならないことを悩んでも無駄だ。後のことは後で考える。彼は切り替えが早かった。  変なものを食べて死ぬよりは、長生きの方がマシだ。そう考える暁治は、ある意味朱嶺よりも能天気かもしれない。  湯を流してもらって身体もさっぱりした暁治は、温かさに吐息を吐きつつ風呂に浸かった。桶や石鹸を片付けた朱嶺が、隣に滑り込むと笑顔で身を寄せてくる。 「まだ許した覚えはないぞ、召使い」  ぺしりと、伸ばされた相手の手を叩く。 「えぇぇ……?」 「なんだ、ドレイの方が良かったか?」 「僕Mっ気ないから、そういうプレイはちょっと」 「おい奴隷、一番高い酒持って来い。お前の奢りだ」 「はいご主人さま、ただいま――しくしく、はるのおにちくぅ……」 「文句言う前にとっとと持って来い。一緒に酒の肴も頼むぞ。お前も飲んでいいが、ノンアルコールでな」 「うぅぅ~……」  ハンカチがあれば、口元で噛んでキリキリ引っ張ってそうな顔をした奴隷を追い立てる。朱嶺は湯船のそばに据え付けられた端末を操作した。  カラオケや回転寿司などのレストランでもお馴染みの注文端末だ。現世と原理は同じかわからないが、なかなかハイテクな設備を備えているようだ。  今日も貸し切り状態の湯船で足を伸ばしていると、入り口で従業員から桶を受け取った朱嶺が、とてとてと小走りにやって来た。  言われた通り、酒とノンアルコールドリンクのようだ。毎回不満そうなのに、そういうところはとても律儀だ。  思えば朱嶺は、こちらを振り回してばかりのくせに、暁治が本当に嫌なことはしない、気がする。つらつらと考えていたら、湯に戻ってきたところで目が合った。 「いや、お前、俺のどこが好きなんだろうって」  もの問いたげな視線を向けられ、ついそんな言葉が口をついた。いきなりなにを聞いているのか。  自分で言うのもなんだが、彼と再会してから、なにかにつけ塩対応している自覚はあるのだ。今の態度もそうだが、相手のことを奴隷とか。そのうち付き合ってられないと、別れを切り出されても不思議ではない気がする。 「え、全部」 「え、嘘だろ」  思わずおうむ返しに聞いてしまった。  正直、出会ってからこっち、彼に惚れて貰えるような行動を取った覚えがない。むしろ日ごろから傍若無人に振る舞って、ひどいだの鬼だの言われた記憶しかない。もっともそれらは朱嶺の自業自得だと、自信を持って言えるが。  最初に会ってすぐ、結婚すると約束したものの、暁治にはどうも解せない。朱嶺は、自分のどこが好きなのか。 「う~ん、そう改めて聞かれると難しいけど。はるが、はるなとこ?」  さぱりさぱりと湯に浸かると、朱嶺は暁治のそばへと寄って来る。 「なんだよ、それは」 「はるって、なんのかんの言っても、受け入れてくれるじゃない? 僕や、僕らを」  人ではない妖であることや、妖の世界にあっさり馴染んだり。先ほどだってついうっかり人外になったと言われたのに、すぐ割り切ってしまう柔軟なところも。 「さっき親父殿も言ってたでしょ? 天狗って修行してなるものでね、僕も元は人間だったんだ。人としていたころは、時代のせいもあるけど、ほんと生きるのが精一杯でさ。こうして学校に行ったり、はるたちと気ままに暮らしたりとか、想像もしてなかったよ」  持ってきていた桶に気づいたらしい。徳利を取り上げると、どうぞと暁治に酌をする。いい酒と注文した通り、淡麗な飲み口が、喉をくすぐった。 「はるに初めて会ったときは、面白そうな童だなって思って。天狗の中では僕末っ子だけど、いい加減生きるのも飽いてたし、結婚とか言われた時も、そういう余興もいいかなって、面白半分だったのは否めないよ。でもはるが小さいころも、この一年も、一緒過ごしていて僕思ったの」  首を傾けると、こてりと、暁治の肩に頭を寄せる。 「小さいころのはるは、意地っ張りで頑固で可愛いかったよね。再会してすっかり意地悪な大人になっちゃったけど、頑固なとこは変わってないし。昔から押しに弱くてお人好しで、でもすごく優しい。他にもいっぱいあるけど、平気なふりして迷ったり悩んだり。僕はそういうはるが大好きだよ。あ、ツンテレなとこもね。あいらびゅーなの」  えへへぇと、朱嶺はほにゃほにゃと頬を緩めて、暁治の頬に唇を当てた。 「でもでも、ありていに言えば、一目惚れってやつかな。僕面食いだからねぇ。って、はる?」  そっち方がよほど綺麗な顔をしているじゃないかと思ったのだけれど、あまりにストレートな台詞たちに、もう止めてくれと、暁治は横を向いて手で顔を覆う。聞くんじゃなかった。 「ねぇ、はるぅ? こっち向いてよ。誰もいないしさ。僕とはぐしてちゅーしよ?」  かもんかも~んと、手を広げる朱嶺。思えば、こいつはこういうやつだった。  暁治は、無言で手のひらを広げると、がしりと彼の顔をつかんで押し返した。アイアンクロー。 「ひゃん! ぴゃるぅ~」  情けない声で、暁治を呼ぶ。 「うるさい、せっかくいい気分なんだ。美味い酒味合わせろ」  どうせ捻くれてるのは自覚してる。くいっと杯を煽ると、朱嶺は口元に手を当て、瞳を潤ませた。 「うっうっ、はるのいけずぅ~、鬼ぃ~」  しくしくと、顔に手を当て泣き真似をする恋人の顔を覗き込む。本人面食いと言ってはいたが、暁治の方だってかなりのものだと思う。  ――これが恋人、なぁ。  顔はともかく、趣味は悪いよな。深々とため息をついたのに気づいたのか、きょとんっと、目を丸くしている朱嶺に顔を寄せると、ちゅっと唇にキスを落とす。  こういうやつには、先手必勝。たまには仕返ししてもいいはずだ。相手の耳元へ顔を近づけると、暁治はそっと囁いた。 「そんな俺が、好きなんだろ?」  顔をのぞき込んで、にやりと歯を見せて笑うと、朱嶺の顔がぼんっと、一瞬で真っ赤になった。まるで茹で上がったタコのようだ。 「え、……あ、……うん! はる大好きっ!!」  朱嶺は両頬に手を当て、顔をうにゅりと緩めると、暁治の大好きな笑顔を浮かべた。

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