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第1話

 この学校にはちょっとした有名人がいる。有名人といっても良いほうの意味ではなくて、皆が皆、その人を遠巻きにする、悪いほうの有名人だ。 田貫秋彦。その有名人の名前は、どこか緩やかな発音の名前に反した堅苦しい字体で、俺の名前が入ったクラス表の中に記されていた。 「お前、タヌキで童貞捨てて来いよ」  俺の無駄に良い耳が、クラス表の前でざわつく人ごみの中からただならぬ声を拾う。なんとなしに声の方へちらりと視線をやれば、数人の男子がにやにやとある方向を見ながら声を潜めて話を続けていた。彼らの視線が向かう先にいるのは、田貫秋彦(たぬきあきひこ)。まさに今、邪な話に名前を出されていた彼だ。  ふわふわと柔らかそうな黒いくせっけ。少し長い前髪から覗く目はたれ気味で、頬は丸く、なるほど、名前も相まってか、いわゆるたぬき顔に見えた。大人しそうな見た目と彼を取り巻く雰囲気が、校内で噂される彼の印象と先ほどの生徒の話に結びつくとはとても思えない。 「(いぬい)、何見てんの?」  クラスメイトから声をかけられても、俺の視線は田貫から離れようとはしなかった。彼の纏う雰囲気と、校内の噂話とのギャップが好奇心を掻き立てたのかどうかは定かではないが、興味が湧いたのは、事実だった。 「んー…あ、」  クラス表を眺めていた田貫が不意にこちらを見た。ばちり、と目が合う。田貫は一瞬驚いたように目を見開いたあと、一度視線を外して、もう一度窺うように俺を見て、――控え目に笑った。 「なんだ、タヌキか」 「……おう」  田貫はぺこりと会釈して、背中を向けた。なんだ、今の。遠ざかっていく背中をいつまでも見つめていると、そこにクラスメイトの顔が割り込まれる。ぎょっとして後ずさると、訝しげに俺を見ていたクラスメイトは合点がいったように「ははーん」と後ろを振り返った。田貫はもういない。 「乾も田貫で捨てようとしたの? やめとけよ、変な病気貰うかもしれねーぞ」 「ちげーよ、そんなんじゃないって。てか病気ってそんな、大げさな……」  病気というのは性病のことを言っているのだろう。田貫の噂とは、簡単に言えば”あいつは誰にでもケツを貸すビッチ野郎”というものだ。男に何を言ってるんだ、と思わないわけでもないが、田貫にはそういう類の噂が絶えない。男子校ならまだしも、ここは共学だというのに。  入学早々先輩と体育館の倉庫でヤッてただの、ホテル街でおっさんとホテルに入っていくのを見ただの、田貫とはクラスが離れていた俺にとってはどこか現実離れしたような、些細な事実に尾ひれがつきまくってるようにしか思えない類のものばかりだが、多感な思春期の高校生にとって田貫の噂は話のネタにはもってこいなんだろう。 「まぁ、普通男で童貞捨てようなんて思わないよなぁ。みんな面白がって色々言ってるけどさ。でも火のないとこに煙は立たないっていうし、関わんない方が吉じゃん?」 「ふーん。…一つ言っとくとさ、俺童貞じゃないよ」 「でしょうね! お前の顔なら女の子選り取り見取りだろうよ!」 「うるさ…」  火のないところに煙は立たない。確かにそうかもしれない。実際、田貫の顔といい雰囲気といい、ある意味男にモテそうだと言われれば、なるほどと納得してしまいそうな印象はある。なんにせよ、今年は同じクラスになったのだから、まったく関わりのなかった今までとは違い、田貫と言葉を交わすこともあるだろう。  噂の中の田貫秋彦と、実際の田貫秋彦。噂通りの人間なのか、それともただそういう噂の的になりやすい何かがあるのか。  せっかく有名人と同じクラスになったのだから、話しかけてみるのもいいかもしれないと思った。  

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