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Fry me to the Moon:01:Satin Doll
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その店に入ったのは偶然だった。最近運動不足だから、1つ手前の駅で降りて歩いて帰ろうと、そんなありふれた動機で駅を降りた。なんとなく小腹が減って、目の前に落ち着いた外装のバーがあって……歩く前に少しだけガソリンを入れてから帰ろう。そんな気持ちでそのバー、Satin Dollのドアを開けたのだ。
ドアを開けると、ジャズピアノの音が聞こえてきた。Fly me to the moonだ。CDの音じゃない。多分、レコードの音とも違う。店の中を見回すと、バーの一角にグランドピアノが置いてあり、そこで男がピアノを弾いていた。生演奏の店なのか。それならチャージを取られるような高い店なんじゃないかと思ったが、それでも瀬川はそのピアノに惹かれて中に入った。
「いらっしゃいませ」
グランドピアノに場所を取られて、座席数はそう多くなかった。客はみな男のピアノに耳を傾け、お喋りの声もあまり聞こえない。
瀬川は空いていたカウンター席に座って、取り敢えずジントニックを頼むと、ピアノの方に体を傾けた。
店内は暗く、男の姿は蒼いライトに滲んで見えた。それでも、男がピアノを弾くときの仕種がとても美しいと思った。椅子に座っているので定かではないが、背は高そうで、手足も長い。少し長めの前髪が、ピアノに合わせて揺れている。年は瀬川と同じくらいだろうか。白いシャツに黒い細身のパンツだけというラフな格好でピアノを弾く男は、ひどくセクシーだ。そう思って、瀬川は狼狽えた。男を相手にセクシーとか。何を考えているのだ、俺は。
隣りに座っている女性の2人連れが、「ね、リクエストしてみようよ」と囁き合っていた。「こっちに来て少しつき合ってくれたりとかしないのかな」とも。なるほど、女性なら、そういう風に思っても不思議はないような、そんな雰囲気を纏った男だ。
「ね、マスター。リクエストしたら、少しあの人とお話できますか?」
その女性客達が果敢にもマスターにそう話しかけると、他の客達が苦笑した。ひょっとしたら、よく繰り返される会話なのかもしれない。苦笑したのは他の客だけではなく、マスターも同じように困った顔で笑っている。
「すいません、あの方はお客様なんです」
マスターの返事を盗み聞いて、瀬川は男を2度見した。客?あの男が?ああ、ピアノを好きに弾いて良いバー、ということか?でも、それにしては彼のピアノは巧すぎる……。そう思ったのは瀬川だけではなかったようで、女性客は2人とも、マスターの言葉をまるで信じなかった。
「え?嘘でしょ、マスター。だって、こないだもあの人がピアノ弾いてたもの」
「いえ、本当に。元々私の妻がピアニストで、ここでピアノを弾いていたんです。でも彼女は家を出て行ってしまって……。ピアノをどうしようかと思っていたら、彼が弾いても良いかって。そしたらあの腕でしょう?うちと契約してくれって頼んでるんですけど、他にお仕事をしてるらしくて、時間の空いたときにしか来れないからって断られてるんです。もちろん、リクエストもNGで、好きな曲しか弾かないんですよ」
マスターの話をそのまま盗み聞きしてた内容によれば、男は大体いつも月曜日と水曜日に来て、ピアノを弾いていくらしい。たまに土曜日にも来てくれる。せめてものお礼にと、この店での飲食はサービスしているそうだ。元々彼はこの店の常連だったそうだが、マスターは彼がピアノを弾くことを知らなかったらしい。
「あまり、お喋りが好きな方ではないんです。だから、誰かに声をかけられると帰ってしまうんですよ」
そう言われてしまえば、女性客もそれ以上何をすることもできない。
男は軽く目を瞑り、自分の奏でる音を見つめるようにしてピアノを弾いていた。曲は全てジャズだった。スタンダートナンバーもあれば、耳馴染みの薄い曲もある。1曲弾き終わるごとに店内の客達は彼に拍手を送り、彼ははにかむように会釈をして、細長いグラスに口を付ける。そうして瀬川がここに来てから、彼は4曲を弾いた。時計を見るともう11時を指している。男は不意に立ち上がるとマスターに頭を下げ、客用のドアから出て行った。
男がいなくなると、店の中は妙に寂しく感じられた。男はずっとピアノを弾いていたわけではない。1曲弾くごとに少し飲み、少し食べ、少し休み、そうしてまたピアノを弾くのだ。男がピアノを弾かない時間は、ピアノを弾いていた時間と同じほど長かった。それでも、そこに男がいないというだけで、店内はひどく寂しく感じた。
男が帰ったのを機に、腰を上げた客も数人いた。だが、瀬川はここで、ピアノの余韻に浸っていたかった。
月曜日と水曜日か……。またその曜日に来れば、あのピアノを聞けるのかもしれない。そう思いながら、瀬川はグラスに残った3杯目のスクリュードライバーを飲み干した。
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