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Fly me to the Moon:02:開発室-01
◇◇◇ ◇◇◇
それ以来、瀬川は月曜日と水曜日にはSatin Dollに通っている。なるほど、男が店に来る時間はまちまちらしく、瀬川が店に着いても男がいない日もあった。男がいたらラッキーくらいの気持ちでいよう。もし男がいても、ちゃんと10時前には店を出よう。翌日に仕事も残しているのだし。そう思っているのに、ノー残業デーの水曜だけでなく、月曜もできるだけ定時に会社を出て、男が帰るまで店に居座ってしまう。自分はすっかり彼のピアノに夢中だ。
「瀬川さん、今日デートですか?」
開発部の湯島にそう声をかけられて、瀬川は一瞬どきりとした。今日は月曜日で、できれば定時で帰りたい。その気持ちが現れてしまっているのだろうか。
「違うよ。ごめん、気が散って見えた?それで、話戻して良い?」
瀬川は中堅の文具メーカーの営業企画部に在籍している。1年前に瀬川が企画して湯島が作り上げたボンドがヒットして以来、2人はこのボンドにかかり切りだ。
硬化するときに出る熱量がごく僅かで、気泡が立たず、透明性の高いボンドは、クラフトにも使えるようにと開発された物だ。高価で取り扱いに色々と注意の必要なレジンと違って、小学生でも手軽に扱えると、順調に売り上げを伸ばしている。前回のデザインフェスに参加したときも、小学生の女の子が喜んでペンダントトップを作っていた。PP(ポリプロピレン)やシリコンには接着しないので、クリアファイルの上にチューブのまま絵を書けばそのままの形に固まるし、水性マーカーを塗った上にボンドを出せば、ボンドにうっすらと色が付く。もちろん、既存のシリコンモールドで型抜きをすることも可能だ。
「ただ、この色なんだよね。もう少しガッツリ色を付けたいって要望が多くて」
「インクを専用のタンクに入れて商品化するってことですか?」
「う~ん、それも良いんだけど、あくまでも文房具なのにこんなに作れるって所が人気なわけだから……」
開発室に置いてあるボンドで作ったアクセサリーを手にとって眺めた。PPに書いた水性インクをボンドに移すだけではどうしても弱い。
「あのさ、修正液みたいに、本体スクイズ式の色ペンはどうかな。できれば布に書けるタイプで」
本体スクイズ式とは、ペン先を押しつけるとインクが出てくるタイプのペンだ。これならインクの量を自在に調節できるので、インクを垂らしてボンドに混ぜ込むことができる。
「透明インクでですか?」
「透明インクと、不透明のシリーズも。不透明の方は、ボンドに混ぜたらミルキータイプになるよう感じで。本当はネームマーカーだけど、布にデコれる布用ペンとしても推して、でもこっちのボンドにも着色できますよって。それができたら、レシピ本を発行してもらえるように、今いくつかの出版社に掛け合ってるんだ」
「なるほど」
機構自体は既存の物を応用すればいいが、問題はインクだ。修正液のようにすぐに固まってしまっては、ボンドに混ぜるのが難しい。だが乾くのが遅すぎれば、布に書いたときに滲んでしまう。ペン先をどうするかも考えなければいけない。
「とにかくそういう方向でお願いしたいんだ」
「分かりました」
湯島が生真面目に頭を下げると、眼鏡が少しずり下がった。
瀬川と湯島は同期だ。だが、1年間のアメリカ留学経験のある瀬川の方が年が1つ上なので、湯島はいつも瀬川に敬語を使う。しかし年が1つくらい違っていようが同期なのだから、そういう面倒くさい上下関係は止めようと何度も瀬川は言うのだが、湯島は何故か瀬川に対して敬語を使い続けている。
そんな湯島はいわゆる研究オタクで、身なりはあまりかまわないタチらしい。髪はいつもピンで留めておでこを出しているし、眼鏡のレンズもずいぶん分厚い。でも、筋張った腕や胸には厚みがあって、肩幅も広ければ手足も長い。はっきり言って、同性である瀬川から見ても羨ましいほどのスタイルだ。立ち上がると背も高く、湯島と並ぶと瀬川がいつも少しだけ悔しくなってしまうのは仕方ないだろう。もっともそれを同僚に言っても「瀬川さんと湯島さんが並んだら、どう見てもイケメンは瀬川さんでしょ!イジメですか!」と怒られるのだが。
いや、ひどくひがんでる訳じゃない。背が低いのは遺伝だし、別に168cmという身長は、それほど低い訳じゃない。そこそこ整ったバランスをしてるので、「あれ?瀬川さんってもっと大きいかと思ってました」と皆に言われるのだから、小さいイメージではないのだと思いたい。まぁ、その台詞も微妙で、いつも複雑な気持ちになるのだが。
それにこの身長だと、イベントで子供受けが良いことも分かった。今一緒に回っている営業の田之倉は、大きすぎて子供達にはやや遠巻きに見られてしまう。だから田之倉は企業や大人対応で、瀬川は子供対応で、分担して巧くやれている、というのもある。
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