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Fly me to the Moon:02:開発室-02

  「そういえば瀬川さん、今日のデートのお相手はどんな方なんですか?」  突然湯島にそう言われて、瀬川は「へ?」とマヌケな声を出した。最初にデートじゃないと言っておいたから、もうその話は流れたと思っていたのに。 「デートじゃないってば。今、ちょっとお気に入りのバーがあって、今日はそのバーに行くんです」 「あ、やらしいなぁ。お目当てのお姉さんがいるんでしょう?」 「違います。ピアノの生演奏をしてくれてね。俺、その人のピアノが好きで通ってるんだ」  そう言うと、湯島は少し驚いた顔をした。眼鏡の奥の瞳が大きく見開かれ、その目が瀬川の顔をマジマジと見つめている。 「あ、湯島君、似合わないって顔してる」 「いえ、まさか。ただ、瀬川さんが……クラッシック?とか?そういうの、ちょっと意外だなと思って」 「違うよ。ジャズ。店に最初に入ったときにね、Fly me to the moonがかかってて。とっても有名な曲だから色んなアレンジがあるけど、俺はその人のアレンジがすごく好きなんだ。ちょっとしっとりしてて、少し切なくて。あんまり賑やか過ぎなくて、でもお子様向けのCDみたいに眠たい感じでもなくて……なんだろう、こう、ぴったり来る感じ」 「ぴったり?」  瀬川の説明に、湯島は不思議そうに繰り返した。 「そう、ぴったり」  瀬川はそう言うと、少し恥ずかしそうに笑った。 「ごめん。なんか、俺ばっかり熱くなって」 「いえ、瀬川さんにそんな趣味があるなんて知らなかったから、今日はいい話を聞きました」  いきなり熱弁を振るった瀬川に呆れるでもからかうでもなく、湯島は優しく笑った。湯島は、いつもとても優しく笑う。自分の開発した商品について語るときも、こんな風に優しい顔で笑うのだ。まるで、慈しむように。 「おっと、それじゃ俺、そろそろ行くわ。じゃ、マーカーの開発の奴らにもそういう風に説明しておいてもらえる?一週間後に正式に開発チームの起ち上げだから、それまでに諸々よろしく」 「はい」  基本的に、湯島はボンドの開発だから、ネームペンの開発はマーカーの開発チームが受け持つことになる。だが、「ボンドに着色すること」をメインに据えているので、湯島が中心になって開発を進めてもらうことになるのだ。 「じゃ、よろしく」 「はい。楽しんで下さいね」 「うん?」  湯島はやっぱり優しく笑って見送ってくれた。今の言葉に何となく違和感を感じたが、きっと「楽しんできて下さい」と送り出してくれたのだろう。湯島には、こういうとぼけたところがある。だから、瀬川は素直に「ありがとう」と笑顔で返した。  湯島は少し天然だ。いつもあの通りの笑顔で、自分の研究さえできれば満足なタイプだ。口の悪い奴は彼をボーッとしてるとかポヤヤーンとしているなどと言うが、そうじゃない。  だって、製品を扱う手つきが、とても上品で丁寧だ。ボーッとしているだけでは、あの上品さは生まれない。女性社員が湯島のピンで無造作に留められたおでこや、分厚い眼鏡、そのくせいつもぴしりと糊の利いた白衣を「いかにもなオタク過ぎる」と笑うたびに、何となく瀬川はムカッと来るのだ。そんな風に思うほどには、瀬川は湯島のことを気に入っていた。ただの仕事のパートナーとしてよりは、もう少しうち解けた仲だということなのだろう。 「湯島君もたまには早く帰れよ。じゃ、お疲れ様」 「ありがとうございます。それじゃあ、お疲れ様でした」  湯島の優しい笑顔に送り出され、瀬川は開発室を後にした。    ◇◇◇ ◇◇◇

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