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Fly me to the Moon:03:ピアノの人
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“ピアノの人”……名前が分からないので、瀬川は例の客を“ピアノの人”と呼んでいる……は、いつも8時頃に現れる。Satin Dollでは、食べ物はおつまみ程度しか出ないから、瀬川は月曜と水曜は外で食事を済ませてから店に行くようにしていた。
店に着くのは8時過ぎ。できれば、もう“ピアノの人”が中にいて、ピアノを弾き始めていて欲しい。ドアを開けるなり、あの人のピアノの音に迎えて欲しい。そうして、彼のピアノに包まれながら酒を飲む。それが1番理想的だ。
今日もドアを開けたら、ピアノの音が聞こえてきた。Fly me to the moonだ。ついてる。一番最初に聞いたこの曲が、彼のピアノの中で1番好きだった。
カウンターの端の席に座り、口元をほころばす。
「どうしました、瀬川さん?何か良いことでも?」
マスターにそう訊かれて、瀬川は慌てて首を振った。
「ごめん、俺、変な顔してた?」
「いいえ。なんだかとても良いことがあったみたいな、幸せそうな顔でしたよ?」
マスターにそう言われて、瀬川は少し困った顔で笑った。
「いや、店に入ってきたときにかかっていたのがFly me to the moonだったからさ」
「お好きなんですか?」
「うん。っていうか、彼の弾くFly me to the moonが好きなんだ」
瀬川が“ピアノの人”を見ると、マスターも彼を見た。相変わらず店内は暗く、“ピアノの人”の顔はよく見えない。けれども、彼が目を閉じて、愛おしそうにピアノを弾いているということは分かる。顔が見えなくても音がそう告げているし、彼の優雅な腕の動きを見ていると、それは間違いないように思えた。
曲が終わると、終わってしまったことを少しだけ残念に思いながら、でも心からの賞賛を込めて拍手を贈った。もっとあの音に包まれていたかったけれど、曲は終わりがあるから曲なのだ
いつものように少しはにかむと、そのままグラスに手を……伸ばすかと思った男が、不意にこちらを向いた。
目が、合ったような気がした。
そうして男はふわりと笑うと、グラスに口を付けて目を閉じた。
「……こっち、見たよね……?」
まさか男がこちらを見るとは思っていなかった。彼はいつでも1人でピアノを弾いて、1人で酒を飲み、1人で休憩して、また1人でピアノを弾く。“ピアノの人”はこちらの客には関心がないのだと思っていた。拍手を貰った後に少しだけはにかんだようにこちらに向かって会釈をするだけ。それ以外に彼がこちらを見る筈がないと、勝手に思いこんでいた。
だが、彼だって生きた人間だ。こちらに目が向くこともあるだろう。それが、意識しているのかいないのかは別として。
その時、隣の女性客が小さく、でも興奮した声を挙げた。
「見た?今、彼、私を見たよ?」
「え?嘘。私を見たんでしょ?」
「ねぇねぇ、帰りまで待って、声かけてみる?」
女性達の声に、瀬川は恥ずかしくなった。
そうか。こっちを見てただけなのに、勝手に目が合ったと勘違いしちゃったのか、俺。これじゃテレビの中のアイドルに向かって「キャー!今私に向かってウィンクした!」とか叫んでる姉貴を笑えないじゃん……。
「どうしましたか、瀬川さん?」
マスターが不思議そうに訊いてきたから、瀬川は慌てて首を振った。
「いや、何でもないです」
そうしてちらりと“ピアノの人”を見ても、彼はもう下を向いて、グラスを手の中で弄んでいるばかりだった。
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