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Fly me to the Moon:04:湯島君

   ◇◇◇ ◇◇◇ 「物がボンドだから、インクを混ぜればデコソースも作れますよね?」  マーケティングの新田がファイルを見ながら、確認の形を借りた要望を湯島に伝えていた。 「デコスイーツにはデコソースが必須です。お客様からもデコソースにしたいから、ストロベリーやオレンジ、チョコソース色のデコソースの作り方に関する問い合わせが来ています」 「ストロベリーやオレンジはすぐにお出しできます。透明インクは成績が良いんです。ボンドにすぐ混ざってくれるから、泡が立ちづらいので。でもチョコソースは不透明インクを混ぜることになるので、もう少し時間を下さい」  湯川は濃度を変えた5種類のインクをボンドに混ぜて見せた。なるほど、不透明なインクは透明インクよりもむらなく混ざるのに時間がかかり、その分気泡が入りやすい。 「UVレジンは熱をかけると気泡が消えるんですが、ボンドでそれやると凝固しちゃいますからね」 「濃度はAの方が薄いんですよね?AやBならどう?」 「サラサラしすぎて、布に書くと溶液がにじんじゃうんですよ」 「うーん」  一斉に皆の目が湯島の手元を見つめながら、口元を歪めた。  インク開発担当の杉本が、湯島の作業を動画に撮りながら、「顔料の種類を少し変えてみます」と口にすると、瀬川は「お願いします」と頭を下げた。  それから日程の確認やその他の事務的な確認を済ませてから、他のメンバーは開発室を出て行った。しかし瀬川はその場に残って、まだボンドとインクをいじっている。 「瀬川さん?」 「これ、透明インクの方は何番の濃度になるの?」 「BとCをモニターにかけてみようかと思ってます」 「俺も何か作ってみても良い?」 「もちろんどうぞ」  湯島は丁寧な手つきで試作用のボトルのキャップを外し、陶器の絵の具皿にボンドを出してくれた。瀬川はBとラベルされたブルーのインクをそこに垂らすと、湯島を見習って丁寧に混ぜた。 「本当だ。混ぜてもあんまり気泡出てこないね」  嬉しそうに瀬川が笑うと、「そうでしょう?」と湯島も笑顔を見せた。  次に瀬川はシリコンモールドにステンレス製の計量匙で無着色のボンドを入れた。そこに今ブルーで色づけしたボンドを流し、爪楊枝で軽く混れば、美しいマーブル模様が現れる。 「ん。色、滲まないね。綺麗なマーブルになる」 「瀬川さん、上手ですね」 「だてに展示会でデモやってないから」  それでも少しだけ浮いてくる気泡を楊枝の先で潰していく。  ……すぐ隣で作業を見守る湯島を、瀬川は少しだけ注意して見た。いつも通りの湯島だ。前髪を無造作にピンで留め、分厚い眼鏡に、糊の利いた白衣。背は180代後半。スラリと長い手足に意外と逞しい胸。 「……ね、湯島君ってさ、ピアノ弾ける?」 「え?僕ですか?」  驚いた顔をする湯島が、すぐにまた笑顔になる。 「どうしたんです、急に?」 「いや…」  先日Satin Dollに行ったときに、“ピアノの人”はまだ来ていなかった。しばらくして店のドアが開き“ピアノの人”が入ってきて、カウンターに座る瀬川の後ろを通り過ぎてピアノに向かった。  ……その時、気がついたのだ。“ピアノの人”の身長が、湯島と同じくらいだということに。  いつもは店の隅のピアノの前に座っているから、気がつかなかった。彼の方が先に帰ることも多いが、その時には瀬川はピアノの余韻と摂取したアルコールに酔っていて、彼の身長まで気にしたことがなかったのだ。だが、その日はまだお酒もそれほど飲んでいないし、やっと来たと、“ピアノの人”に意識が向いていた。  最初は「同じくらいの背なんだ」と思った程度だった。  だって、2人は全く違う。湯島からはいつもボンドの匂いがするけど、すれ違った“ピアノの人”からは良い匂いがした。髪の毛だってお洒落にフンワリと流しているし、あの分厚い眼鏡もしていない。目はぱっちりとしていて、結構イケメンだ。湯島君は……ダメだ、眼鏡とおでこの印象が強すぎて、素顔を想像できない。でも、目はあんなに大きくなかった気がする。  それでも2人には共通点がある。2人ともすごくスタイルが良いし、何より“ピアノの人”がグラスを持つ時の手つきが、湯島がボンドのボトルを持つ時と同じように丁寧で上品なのだ。  それと、もし気のせいでなければ、最近“ピアノの人”はよく自分の方を見ている気がする。最初は自意識過剰なのかと思っていたが、やっぱりカウンターで酒を飲んでいると、首の後ろにチロチロと視線を感じるのだ。あれって、ひょっとして湯島君なんじゃないかな……。湯島君も俺に気づいて、それでこっちを見てるんじゃないかな……。そう思ったのだけれど、なんとなくそれを口にするのは躊躇われた。  だって、勘違いの可能性もあるし、それに何よりもし本人だとしたら、俺は本人だと知らずに、本人に向かって彼のピアノの良さを力説していた事になるのだ。恥ずかしい!恥ずかしすぎるぞ、そんなの!! 「あ、そういえば、今日はピアノの日なんでしょう?」  湯島が微笑んで見つめてくる。その笑顔が優しくて、瀬川は少しだけドキドキした。 「……うん」  俺が楽しみにしているピアノを弾いているのは君じゃないのか?そう訊いてみたいのに、完璧にタイミングを外してしまっている。もっと早い段階で訊ければ良かったのに。  作業台の上のモールドを見ながら、瀬川の方がボンドよりも早く固まっていると、湯島は全くそんな瀬川を気にしていないようにモールドを持ち上げた。 「これ、固まったらお届けしますね。それじゃあピアノ、楽しんで下さいね」 「……うん、ありがとう。じゃあ、俺もこれで」 「お疲れ様です」  湯島は挨拶を口にしながら、モールドに埃よけのペーパーを軽くかけ、乾燥棚にしまった。  資料のファイルを掴んで席を立ち、開発室の入口で瀬川は振り返った。湯島は乾燥棚に向かっているので、瀬川には彼の背中しか見えない。  湯島は瀬川の作ったマーブル模様のボンドをずっと見つめていた。なんでそんなにじっと見つめているのだろうと思うと、なんとなくじっとりと、瀬川は自分の顔が赤くなるのを感じた。  なぁ、あのピアノを弾いているのは湯島君なんだろう?  何度も口元まで登らせた台詞を、瀬川はその度に飲み込んだ。あんまり何度も飲み込んでいるから、きっと瀬川の中はその言葉でいっぱいになっている筈だ。  乾燥棚のマーブル模様を見つめている湯島の背中をもう一度見つめてから、瀬川は踵を返し、足早に開発室を後にした。   ◇◇◇ ◇◇◇

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