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Fly me to the Moon:05:マスターと瀬川さん
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「もうすぐバレンタインですねぇ」
Satin Dollのマスターが瀬川にビーフィーターを差し出しながら、誰に向かって言うともなしにそう呟いた。
試作に試作を重ねて、ネームマーカーは完成した。パッケージのデザインはもう決まっているし、生産ラインも確保済みだ。ここから先は我ら後方部隊が頑張る番だ。いつもこう言うと、湯島からは「瀬川さん達が前面に出て売ってくれてるんじゃないですか!」と言われるが、あくまでも主役は精魂込めて製品を作る、開発やデザイナーなのだ。こんなに良い物を作ってくれたのだから、後は自分達が売って売って売りまくらなければ!
「瀬川さんはバレンタインのご予定は?いつも1人でピアノを聞きに来るけど、いるんでしょう?良い人」
「いませんよ」
「またまたぁ。うちもバレンタインはカップル限定でサービスがありますから、ぜひ彼女を連れてきて下さいよ」
マスターが笑いながらそう言う。
瀬川は女性社員達から格好良い格好良いと言われるが、あまり女性から告白されることはなかった。忙しくて構ってもらえないと皆が知っているのもあるだろうし、どうせ彼女がいるのだろうと思われている、というのもあるらしい。まぁ、ここのところずっと、ノー残業デーの水曜だけでなく、月曜日もさっさと帰る瀬川が、家で待ってる人がいるのだろうと思われるのも仕方ないのかもしれないが。
「2月14日は仕事です。10日に新商品が発売になるんで、14日はイベントをするんです。ちょうど日曜日なんで、バンズに特設コーナー作って、新商品を使ってデコスイーツのストラップを作るイベントするんですよ。もちろん、チョコレートモチーフで」
「へぇ、楽しそうですね。そういうの、女の子がたくさん来るんでしょう?」
「そうですね。小学生くらいの女の子が結構参加してくれるんじゃないかなって期待してるんですけどね」
ボンドは1本360円。マーカーは1本120円。子供のお小遣いでも買える金額だ。学校で流行れば、小学生は当分の間ハードリピートしてくれる。そこから本格的なクラフト女子がリピーターになってくれれば、デコスイーツやアクセサリーの素材の1つとして定着してくれるはずだ。もちろん、本来のボンドやマーカーとしての性能も申し分ない。特に白いネームマーカーの布映りの良さは、従来品の比ではないのだ。これは、ネームマーカーとしてもヒットするに違いない商品だと、胸を張って言える。
「じゃあ、お忙しいんですね」
「そうですね。ありがたいことに」
本当は、今も死ぬほど忙しい。今日はノー残業デーだが、店舗廻りをしてきたので、この店に着いたのは9時を回っていた。でも、瀬川は新商品発売前の、この忙しさが大好きだ。ずっと温め、皆で一緒になって作り上げた物が形になってお客様の手元に届く。ここで頑張らなければ、スケジュールギリギリで死ぬ気で開発してくれた皆や、この商品に携わってくれた人達に申し訳が立たないと、変なアドレナリンが出るのだ。
瀬川はちらりとピアノの方を見た。先程Jeannineを弾き終えた“ピアノの人”は、今は満足げにおつまみのクリームチーズと干し柿とクルミの和え物を舐めている。瀬川がその様子を見ていると、“ピアノの人”がこちらを向いた。そうして瀬川と目が合うと、にっこりと笑って、またおつまみに視線を戻す。
……湯島君だと思うんだけど……。
でも湯島君はあんな格好を普段はしない。もし本当に湯島君だとしたら、どうしてあんな変装をしているんだろう。これがバイトだというのなら会社にばれると困るから、という理由かと思うけど、彼はただ勝手にあそこでピアノを弾いているだけだってマスターが言っていたし……。
ひょっとしたら、何か理由があるのかもしれない。だったら、俺は聞かない方が良い。うん。そうだ。そう思おう。瀬川はここまで何も聞けなかったふがいない自分をそう理由づけて納得することにした。
“ピアノの人”がピアノの脇に置いてあるサイドテーブルにおつまみの器を置いた。それからすぐ、店内にMy Funny Valentineが切なげに流れ始めた。
ああ、やっぱり俺はこのピアノが好きなんだ。このピアノを弾いているのが湯島君でもそうでなくても、どうしてあんな変装をしてピアノを弾いているのかもどうでも良い。だって、彼のピアノはとても心地良いのだから……。そう思って、瀬川はうっとりと目を閉じた。
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