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Fly me to the Moon:06:イベント会場-1

   ◇◇◇ ◇◇◇  2月14日、バレンタイン当日。瀬川はバンズのクラフトフロアの一角で、ボンドとネームマーカーで作るチャームの体験イベントを行っていた。  1回300円だというのに盛況で、4時の段階で残す席は最終回の3席だけになっている。  講師にデコスウィーツアーティストを迎えて、瀬川はそのアシスタントだ。女の子達が一生懸命ハートのチョコレートをデコっている間に、瀬川はその保護者達にネームマーカーの性能を紹介する。見本の綿ニットに名前を書いて見せていると、後ろから声がかかった。 「あの、今からでも申し込めますか?」 「今からですと、最終の7時の回になりますが」  父親だろうか。男性客の声に顔を上げながら答えると、目の前に立っているのは湯島だった。 「あれ?湯島君……?」 「お疲れ様です。あの、僕も良いですか?」  いや、良いですかって……。お前が作ってどうするんだ……。そう思って、瀬川は思わず眉を寄せてしまった。 「あの、……いや、じゃあ、席が余ったら……」 「あ、そうか……。ごめんなさい」  瀬川の「関係者が何言ってるんだ」という雰囲気を感じ取ったらしい湯島が前言を撤回しようとすると、講師の白井がこちらに視線を向けた。 「最終回はいつも空きが出るから、多分大丈夫だと思いますよ」  それを聞いて、湯島は腕時計で時間を確認した。4時20分。まだ7時には大分間がある。 「じゃあ、10分前に戻って来ます。もし席が埋まっていなかったらお願いします」  湯島は几帳面に頭を下げると、くるりと向きを変え、売り場の中に消えていった。  思わず呆気にとられてしまった。湯島はいつも、瀬川の予想の斜め上を行く。 「今の方、お知り合いですか?」  白井にそう訊かれたが、まさかこの商品の開発責任者がお客さんの席を奪って作りに来ましたとも言いづらく、瀬川は曖昧に笑った。  どうしたんだろう……。っていうか、今日バレンタインなのに……。  いつもの分厚い眼鏡はそのままで、髪の毛はやっぱりピンで留めていた。さすがに白衣は着ていなくて、黒いセーターにグレーのコート。白衣じゃない湯島はレアだ。打ち上げや飲み会があっても、湯島は滅多に参加しないから、瀬川は湯島の白衣以外の姿をあまり見たことがない。  それでも、スタイルの良さのせいか、あの眼鏡もデコ出しヘアも、何となくサマになって見えるから不思議だ。  湯島君、彼女いないのかな……。いや、でももし湯島君が“ピアノの人”なら、月水はSatin Dollに来ているのだから……いや待て、週末には彼女と一緒にいるのかもしれないし……って、今日はその週末で、しかもバレンタインだぞ?  ハッとして時計を見る。いけない。何をグルグルしているんだ。5時の回の準備をそろそろ始めなければ。  体験イベントの合間にも、商品は順調に売り上げていた。特にカラフルなネームマーカーは、Tシャツやトートバックにお絵かきをするのにも最適だ。幼稚園児の子供の母親が誕生日の記念にお絵かきをさせてみようと12色セットを購入したり、リメイク女子が色を吟味して複数本お買い上げ下さったり。他の子とは違う、可愛い色で名前付けをしたいというお母様方にも好評だった。もちろん、レジンにはちょっと手が出せないという女の子が、ボンドと一緒に購入してくれることも。  お客様の反応にまずまずの手応えを感じながら、あっという間に時間が過ぎていった。気がつくともう6時50分だ。残り席はまだ2つ空いている。 「良いですか?」と女子中学生らしき女の子が席を1つゲットしたが、その後はもうお客様は来そうにない。7時という回はいつも少し微妙だ。もうおなかのすく時間だから、しょうがないのだけれど。 「瀬川さん、席、空いてます?」  湯島は宣言通り10分前に現れて、残り席数を書いたボードに目をやった。講師の白井は湯島を社内の人間だと知らないので、「大丈夫ですよ」と笑顔で紙エプロンを渡した。 「良かった。お願いします」  湯島はいつも通り、優雅な仕種で財布から300円を取り出すと、瀬川に渡した。これで6席埋まり、体験イベントは無事にスタートした。 「今日は、このチョコレートに好きなパーツをデコって、デコソースをかけて、ストラップを作ります。チョコレートも、このボンドで作ったんですよ。固まるのに時間がかかるので、このパーツは私が事前に作っておきました。作り方をお見せするので、皆見てて下さいね」  白井はそう言うと、茶色の不透明マーカーのペン先を絵の具皿に押しつけてインクを溜め、そこにボンドをチューブから捻り出して、よく混ぜた。気泡の量は許容範囲だろう。それをシリコンモードルに流し込み、浮いてくる気泡を楊枝の先で潰す。 「このまま1日おくと、こんな可愛いチョコレートができまーす」  白井が出来上がったパーツを見せると、女の子達は口々に「可愛い~!」と歓声を上げた。 「その型も売ってますか?」 「もちろん!このコーナーで売ってますよ!帰りに見ていって下さいね?それでは、土台になるチョコレートパーツを、茶色とピンクと白の中から選んで下さいね。そしたら、トッピング用のパーツを3つ選んで下さい。選べた?そしたらデコソースを作ります!ソースの色は何が良い?」  白井の説明に従って、湯島は茶色のチョコを選ぶと、そこに絞り出して固められた生クリームとチェリー、それから巻きチョコのパーツを選んだ。デコソース用のペンは透明インクの中から赤を選んで、それからちょっぴり黒を足す。どうやら湯島はパッションソースを作るようだ。さすがにこれは手慣れた手つきで、講師よりも気泡を少なく混ぜ合わせた。 「や~、どれにしよう!!」 「パパ、何色が良いと思う?」  女の子達がきゃっきゃきゃっきゃと喜ぶ中、湯島は相変わらず丁寧な手つきでソースの中の気泡を楊枝の先で潰している。

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