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第13話

-雨土歌-  夢旭を探したけど夢旭はよく居る場所にはいなかった。どこ探してもいなくて一度彩波ちゃんのところに戻ろうと思ったけど彩波ちゃんは階段を降りてくるところだった。単騎(ひとり)で攻めてきた逢沢を背負って。彩波ちゃんはオレに気付いた。顔の片側が赤い。殴られたみたい。 「尾久山」  目の前に来ると制服があっちこっち汚れてた。いつもはきっちりしてる髪もちょっとぐしゃぐしゃ。 「夢旭は見つからなかった」  どうしよう、オレのほうが背丈あるんだし後ろの逢沢預かったほうがいいよね?でもそれに触れていいのか… 「…そうか。わたしは井上学まで行ってくる」 「あの…さ、彩波ちゃん…」 「逢沢は戦闘不能だが、五十音は勝ちを認めないつもりだ」 「オレも行くよ、1人じゃ危ないし」  彩波ちゃんは首を振った。示威行為(シイコーイ)だと思われたら厄介なんだって。彩波ちゃんは強いから大丈夫だと思う反面で、やっぱ心配でもある。オレが油断しちゃいそうで。彩波ちゃんは逢沢を抱え直して特に重そうって様子もなく校門を出て行った。体育館横のドアの階段に座ってる王様が彩波ちゃんを目で追ってからオレのほうを向いた。隣にはやっぱり情愛恋人(いちごジャム)だか何だかの測定眼鏡がいた。王様だけオレのところに来る。1人にしていいのかよ?オレだったら相手誰でも夢旭連れてくるけど…いや、夢旭とはもうそんな関係じゃないんだった。 「ふん、お()りが要るか?あの嬢ちゃんの」  小指の爪より小さくなった逢沢付きの後姿を一度確認しちゃって、指巣(さしす)川での一件の罪悪感が重く()し掛かった。それに王様を巻き込めない。もっと早く気付くべきことだった。逢沢の襲撃で、もう悠長に構えてられないんだなって思った。でも王様がいくら強くてもきっと彩波ちゃんは王様を巻き込みたくない。 「う~ん。いいや、やめとく」  王様は少し意外そうなカオをした。そりゃそうだよな、オレだってちょっと自分の意思とはまた別だもん。 「ほぉん?」 「心配では、あるけどさ」  王様と雑談してる場合じゃなかった。夢旭見つけて、一応無事を確認しないと。遠目でいいから。一瞬だけ。ちょっと見るだけ、ちょっと…。わざわざ視界に入って嫌がらせするつもりじゃない。 「僕ちゃんの想人(キャンディ)なら渡り廊下にいたぜ、さっきまで」 「ありがと。行くわ」 「顔を立てるってのぁ楽じゃねぇな」  王様に背を向けた途端にそう聞こえた。それが何か幻聴みたいにぼんやりしてた。 「確かに」  渡り廊下に急いで外を眺めてる夢旭を見つけた。ちょろっと見て壁に隠れる。無事で元気ならそれでいい。夢旭に会うと夢旭のこと置いてきぼりにして舞い上がっちゃうのに。目的を果たして生徒会室に戻る。目も当てられないくらい荒れ果ててた。竜巻でもあったのかな?机直してたらドルアイ部の黒猫男子くんが手伝いに来てくれた。彩波ちゃんに用があったんだと思うけど、居なきゃ居ないで手伝ってくれるんだからなかなかいい後輩がいるもんだよ。ただあの奇人変人の集団で胃を痛めないかな。 「…今日、雲霧先輩…来てる」 「へ?あ、あぁ、そう」  黒猫男子の微風(そよかぜ)みたいな声は机引き摺る音でよく聞こえなかった。ただ単語を拾ってなんとなく意味が分かる。 「ただ…ちょっと…具合悪いみたいだ…」 「風邪っぴきだったもんな」  黒猫男子は手を止めてオレを見る。でもオレからはどこ見てんのか分からない。前髪長すぎ。切れよ。 「尾久山先輩と…話したいんだと、思う」 「そりゃないね」  真っ向から否定しちゃったからか黒猫男子は下向いて黙っちゃった。ちょっと悪いことしたかも。 「だって休みの日にあいつの家行っていっぱい話したしさ」  そしたらまた黒猫男子はオレを見た。 「家…行ったの…?」 「成り行きで」  色々偶然が積み重なって。あいつ泣いてて。思い出したらなんかオレまで気恥ずかしいし、正直会いたくない。泣くとかあいつから一番離れた感情だろ。まだもうちょっと時間が欲しいでしょ。あいつも意外とああいうところあるんだなって顔見るたびに思っちゃうじゃん。  大方片付いて黒猫男子は教室に帰っていった。ぼんやりと窓辺の定位置に座ってほぼ元通りになった室内を見回した。一瞬だけ見られた渡り廊下の夢旭の姿に少しうっとりする。カッコイイしスタイルいいしかわいいし。オレの語彙力じゃ表現できないけど。とにかく無事でよかった。でも彩波ちゃんはちょっと怪我してたし、1人で井上(いう)学行ったんじゃまだ安心できない。なんて考えてたらドアが乱暴に開いてびっくりした。珍しい人が来たもんだ。我らが生徒会の書記、是成(これなり)だった。是たん、是きゅん、是りん、態度は冷たいし横柄だけどそこが面白いとかいじり甲斐あるとかで結構愛されてる。そういえば雲霧の家から帰ってくる時小学生女子と歩いてたっけ。 「(これ)きゅんって妹いんの?」  是りんは書記の机からなんか取り出してるところだった。 「居ない」  会話は3秒で終わった。元々そんなに話す仲でもないしな。 「腐れ陽キャどもが」  それで捨て台詞まで残して去っていってくれるからなんだかんだ言って是たんは面白い。でもそうだろうなとは思ったけどあの小学生女子が妹じゃないなら、なんであんな親しそうだったんだろ?事案かな。ま、ファッションロリコンだろ。オレはまた1人の時間を持て余して彩波ちゃんのこと考えてたけど心配でイライラしちゃうから夢旭のこと考えてたけどこれもやっぱりイライラしちゃうから教室に戻った。でも途中で、こんなんでまともに授業受けられるか?って思うと足が止まった。彩波ちゃんは帰ってくる!だって強いもん!って能天気に信じられたらいいけどさ。  で、結局のところ彩波ちゃんは無事に帰ってきた。ただやっぱりちょっと気拙い感じがあって、それっていうのも"ドウ逢沢ヲ倒シタノカ"問題なんだよ。だって公約的に暴力はアウトだから。自衛でもギリギリ。でも彩波ちゃんはそれをよく分かっていると思うから、暴力が秩序を乱す他者を傷付ける力の使い方だとしたら、これは他者を最小限で傷付ける秩序に従った力の使い方なのかも知れないよ。これって勝者の匙加減で限定的な屁理屈なんだけどさ。 「お疲れ」  彩波ちゃんはオレを無視した。無視したってのは語弊がある。多分聞こえてなかった。だってなんか考え事してる。じゃあ無闇に声掛けられないよな。 「あっ痛って」  オレは静かにフェードアウトしようかなって思ったのにこういう時に限ってドジっ子なんだよ。机に足ぶっつけた。そんなに痛くはないけど、驚きとかそういう反射みたいなのがオレを大袈裟にする。彩波ちゃんが現実に戻ってくるには十分で。 「尾久山か」 「お、彩波ちゃん。お疲れ」  本日2度目。 「…すまない。合わせる顔がない。浅海にも、他の人たちにも…」 「最小限の喧嘩で済んだなら、公約を守るための手段だったんだと思うよ。仕方ない」 「そうだろうか?わたしは確かにそう思いたい……でも……暴力は暴力だ」  あとはオレが何を言っても気休め。お手上げ状態。彩波ちゃんには損な役回りを押し付けて、そのケアもオレにはできないんだなって。 「浅海には会えたのか」  気遣うべきはオレ。でも気の利かないオレに、彩波ちゃんは気を遣う。顔に出てた?情けない。 「うん。元気そうにしてた」 「それはよかった。部屋も片付けてくれてありがとう」 「あの黒猫みたいな1年が手伝ってくれたんだよ」  彩波ちゃんは、「そうか。ありがたいな」と言ったけど、オレと目を合わせちゃくれなかった。 「彩波ちゃん。ありがとう。五十音(いそね)を守ってくれて。ありがとう。それと、おかえり」  彩波ちゃんの眉毛が少し動いた。噛んだ痕のある唇が開きかけて、でも何も言わない。 「夢旭も無事だったよ。何も知らなかったみたいだし」  彩波ちゃんはちょっと頷いた。さっきから反応はしてくれてるけど、やっとこっちを意識してくれる感じがした。色々背負わせて、オレの手だけ綺麗なんだなって思った。人を殴るセンスはあるのに、人を殴るには向いてない人だ。人を殴るのに向いてる人って、なんだよ。  ってオレまで気分が落ちてどうすんの―と思った時にガラガラやかましく生徒会室のドアが開いた。ドルアイ部がガヤガヤ入ってくる。ほんっとに空気読めない!ぞろぞろきて、揃えたばっかの生徒会メンバーの席にお菓子だの飲み物だの並べてく。は? 「尾久山ア」  オレも彩波ちゃんも目が点よ。そしたら雲霧の野郎がオレに擦り寄ってきた。マニキュア塗ってある手がオレの肩掴んでる。 「ありがとオなア」  何かしたっけオレ。あれか、風邪っぴきの件か。 「会長ちゅわんも、悪かったんなア」 「元気ならそれでいい」  で、オレの肩放せし。 「尾久山ア……」 「なんだよ」 「なんでもねエよ」  王様がこっちを見てる。腕組みして、オレを見てうんうん頷いてる。 「何これ。いつから生徒会室はおたく等の部室になったんです」 「祝勝会だ、祝勝会。さ、乾杯すっぞ」  測定眼鏡が紙コップを配ってるしオレと彩波ちゃんにも握らせた。彩波ちゃん、戸惑ってんじゃん。 「お飲み物は何にします?」 「祝勝会?祝勝会って……」  オレは王様の組んでる腕引っ張っちゃった。生徒会室の外に出て、廊下のちょっと離れたところで放す。なんだよってカオしてんのムカつくな。 「ふん、五十音が井上(いう)学に勝ったんだ。喜ばしいこったな」  めんどくさいカノジョにありがちな「なんであたしが怒ってるか分かる?」的なやつ、オレしてた?やっぱ王様ともなると、オレがなんで怒ってるのか、別に怒るってほどじゃないけど、分かるんだね。 「彩波ちゃん、乱闘しないって決めてたのに逢沢倒しちゃったこと、多分気にしてんだよ。生徒に守らせてたこと、自分が破っちゃった。それを大々的におめでたいことって言ったら、彩波ちゃん、困惑するよ。今はそっとしておいてやってよ」 「それで何の問題があんだ?正当かつ真っ当な手段に出たまでだろうが。倒され屋でもあるまいに。僕ちゃんは、あのお嬢ちゃんの無事でも祝ってやるといい。お嬢ちゃんが気にしてんなら(オレ)様たちの今すべきは、気分転換させてやることだ。顔を立てんのは、楽じゃねぇんだろ?」  ぽんとオレの頭に大きな手が乗った。子供扱いかよ。それで颯爽と生徒会室に戻っていく。ボイコットしたいけどさ、彩波ちゃんが気にするからオレも戻るよ。 -日風水世-  逢沢から蹴りが入った。ダンサーのような身のこなしだった。軽く受けて、力を往なした。 『これはさ、way of lifeなわけ』  尻を打たれても逢沢はまだわたしに挑みかかろうとした。けれど構えからして、わたしの尻打ちは無駄ではなかったみたいだ。 『部活とjust likeなの。youは部活に、hand抜くの?』  体力はまだまだありそうだ。長期戦に持ち込みたい。わたしがこのまま避けられる限り。そこまで集中力に自信があるのか?ない。 『そんな風には思えない。人を殴って叩きのめして、そうまでして学校の名を馳せたいのか?』 『weのschoolはそれがrule。そして五十音!youのschoolも倒すlistに入ってる!だったらmeは井上(いう)学のtopとして、youを倒す!』  蹴りを受け、払い除ける。逢沢が防御に入りかけたところでわたしは後ろへ下がった。互いに隙を埋め練り歩くけれど、足元には机や椅子が倒れて散らかっている。 『やるからにはvictoryを狙うけど、でもね、本当に必要なのはvictoryじゃない。五十音とマジでfightすること!』  彼は駆けてきた。一気に距離を詰められて、眼前で消えたかと思うと低姿勢からわたしの足を払おうとする。わたしは跳んだ。考えるよりはやく身体が動いて、わたしを見上げた逢沢の首を掴み、床に押し倒す。首をへし折るだとか、圧迫するだなんてつもりは毛頭ない。腹に一撃でも入れたら、潔く諦めてくれるだろうか?勝ってはいけない。五十音に戦意はもともとない。 『あとはもうjust do it。youがやらなくたって、戦意ある五十音のstudent探すだけ。ここでyouがvictoryを狙ってgameをdecideしなきゃ。youがここの代表ならね!何人のbloodが流れると思う?』  それは煽っているのか、それとも本気なのか。わたしは指の関節を屈伸させた。軟骨が軋んだ。勝利だの学校の名だのにこだわるなら、わたしがここで戦闘放棄をしたところで、次に狙われるのは五十音の生徒。一瞬浅海のことが脳裏を過って、浅海のこととなったら尾久山が気を揉む。多分わたしは五十音の生徒のことなんて気に掛けてなかったんだと思う。打算ばかりだ。尾久山には嫌われたくない。尾久山には見捨てられたくない。浅海がAのようになったら、きっと尾久山はわたしを―……  victoryしたfaceしてよね。  気付くと逢沢は目を閉じていた。息はある。彼をAにしてしまった?気付くと、なんて言って、わたしは結局打算的だ。急所を狙わなかった。だから結果、逢沢を痛め付けることになった。そしてそれを見て、またスカートの布を押し上げている。わたしがわたしの認識を、完全に"女"にしてくれない器官が。放っておけば治まる。わたしは逢沢を背負った。同時に、浅海をAにはしなかったけれど、本当は浅海がAみたいになることなんてなくて、尾久山がAの恋人みたいになることもなかったら。わたしの妄想ではなく現実の尾久山が、この様を見てどう思うか気になった。尾久山は命の恩人だ。尾久山はわたしに生きる意義を与えてくれた。その尾久山に、この様を見られたら……  少しの間、ぼうっとしていた。そしてやることを思い出す。スカートも凹んでいた。逢沢を送らなければならない。 ◇  こうしてアイドル同好会と騒いでいると、ここが逢沢を潰したところと同じ部屋には思えなかった。楽しくやっているアイドル同好会から離れて応接用ソファーに座る。わたしは陰気だから、盛り上がった空気には邪魔だろう。気を遣わせる。 「仁王先輩」  蛍光黄色の炭酸飲料を飲んでいると隣に犬上が座った。かと思うと肩に寄り掛かられる。 「犬上か。部屋の片付けを手伝ってくれたそうだな。尾久山から聞いたよ。ありがとう」  いつ見ても艶やかな黒い髪が揺れる。尾久山の黒猫という比喩も、彼の内面をよく表している気がする。孤独を好むかと思うと意外と人懐こいところとか。 「先輩が無事でよかった」 「わたしは無事だよ」  わたしは無事だ。けれど逢沢は無事ではなかった。殴った感触はまだ指にも手にも、肘まで残っている。紙コップを持ち上げるのも気怠くてソファーに転がっている。そういう手を犬上は拾い上げた。人を殴った手だよ、それは。 「あっち…………行こうよ。先輩が………主役だよ」 「わたしはここがいい。わたしに気を遣わないで、犬上もあっちで楽しんできたらいいよ。ありがとう」 「先輩がここにいるなら…………俺もここに、いる。でも、お菓子……もらってくるから」  わたしから離れた犬上に(かこつ)けて賑やかにやっている生徒会席のほうを向いた。尾久山と苔室の姿が目に入る。窓際に2人外れて、それでも顔を合わせようとしないのが甘酸っぱい。わたしは尾久山には浅海と決めてかかっていて苔室にいくらか申し訳なくなった。浅海は尾久山の過去の恋人だ。浅海にだって新しい出会いがあるはずで、尾久山の気持ちもずっと変わらずあるわけではない。それでもわたしの脳天に閃いたのは眠る浅海とわたしに憎悪を向ける尾久山だった。ああいう思いは二度としたくない。現実で起こって欲しくない。たった一度起こったことはもう取り返しがつかなくて、まだ胸が苦しい。 「楽しんでっかい」  目の前に天地が座る。パイナップルか、マンゴーにしては少し酸味のある、蛍光黄色の炭酸飲料の甘みが急に何か気持ちの悪いものに感じる。天地は苦手だ。 「部費から出したのか」 「はん、野暮なこと訊くもんじゃねぇやな」  山川も来るのだろうか。少し胃が重い。このまま荒治療をするのも悪くないけれど。天地はAではないし、山川はAの恋人ではない。似ているけれど…… 「会長さん。尾久山の坊っちゃんはおたくの苦悩も葛藤もよく分かってるよ。いい相棒(バディ)だな。あんま距離置くような真似してやりなさんな」 「ああ……そうか?」 「お互いに怖くて近付けないジレンマは見てて痛々しいぜ」  天地に釣られてわたしも尾久山のほうを見てしまった。 「会長さん。おたくの拳は自分のためのもんじゃないコト、よく分かってるから。でもやられっぱなしで会長さんが帰って来るのもそれはそれで胸糞悪い。これは会長さんがひとり背負い込むもんでもない」  そうだろうか。わたしはAの恋人が怖かった。そうなる尾久山の姿を描いて、今でも怖い。 「いつかあの坊っちゃんが後悔しそうで、つい首突っ込んじまう」 「後悔?」 「お堅いあんたを会長さんに据えたこと」  天地は少しいやらしく笑った。思わず目を逸らした。彼はまだ息をしているだろうか。ふと思う。 「ま、五十音の一生徒として、井上(いう)学に侵略されなくて済んだってこった。アイドル同好会なんて即解体モンだろ?守ってくれて感謝っつーこった」  言うだけ言って彼はまた戻っていく。生徒会長席に座って、左右に回っている。気を遣ったタイミングで犬上がわたしの横に来た。対面に座ったほうが広い。やはり黒猫か。 「食べよ」 「ああ」  ビスケットの袋を開けて差し出される。 「尾久山先輩と雲霧先輩………納まるところ、納まるといいんだけど………先輩は、どう思う……?」  校則違反の長い前髪の奥で黒い目がわたしを窺うように見ていた。尾久山がその気ならわたしもそう思うけれど、実際は浅海のことばかりだろう。苔室にもやはり自覚がない。 「そうだな」  表情の乏しい犬上が少し喜んでいる。先輩想いの優しい子なのだろう。 「先輩」  彼はわたしに寄り掛かる。井上学院に負けたら、江尾工業と柿崎商業工業、それから市立菊池を倒すための兵力にされるだろう。守るなら、やるしかないのか。 「わたしはもう行くから、みんなのところで楽しんでこい」  生徒会室を出る。階段を降りかけたところで、女子生徒がいた。風紀違反の茶髪とパーマ。髪飾りやリストバンドなど華美な装飾。短いスカート。ジャスト着用なしの派手なカーディガン。学校指定ではないルーズソックス。わたしを見て挑戦的に微笑む。この人を知っている気がした。 「(なま)ってなかったんだ」  わたしの低い声とは違う、今風のはきはきした声でそれでも鋭いものがある。何か身体中の毛が逆立つようなものがあった。わたしはこの女生徒を知っている。それでいて名前が思い出せない。 「誰……?」 「忘れちゃった?あーしのこと。逢生(あいおい)一二三(ひふみ)――」  意識が遠退く。Aだ。Aに間違いない。Aの名前だ。目の前が真っ白くなった。わたしはAの本名を知らないけれど、確信した。  眼球が天井へ吸い寄せられる。ここは階段の途中だった。しかし意識が保たない。浮遊感に抱かれる。  A―逢生一二三を迎えに行ったのはわたし一人ではない。現場にいたのはわたしだけだったけれど、もう一人いたのだ。どうにかこうにか、彼をリンチ状態にした相手を倒し、駆けつけたとき、彼はもう立たず目覚めず反応を示しはしなかった。横で(うずくま)ることしかできないわたしに、手を差し伸べた者がいる。帰ろう、と言った。今まで何故忘れていたのだろう。でも、顔も声も覚えていない。何を話したのかも覚えていない。話さなかった気がする。話せるような状況ではなかった。  あの時の女生徒だ。声も顔も性別も定かでなかったけれど、雰囲気(におい)が断じている。  わたしは落ちていった。柔らかく受け止められる。 「まずはおめでとう。でもまた―……とやって、勝てる?」  懐かしく薫る。弱い頭痛が大きく響いていく。

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