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第15話

「高浜さんからは、何か」 「いや? 彼は君のことは何も言わないよ。聞いても言わない。まぁ、ここに通うようになるから、よろしく、くらいかな」 「……そうですか」  レイは五嶋の肩越しの明るい窓に視線を移した。 「……静かですね」 「音を流すこともできるけど?」 「……いいです。このままで」  五嶋はペンを置いて、レイの清しい表情を見つめた。 「高浜は、これから君といることで、少しずつ変わっていくだろうね」  レイは答えなかった。ずっと心のどこかに小さなしこりが残っている。それが何なのかわからないまま今ここにいる。これでいいのか。そんな自問自答の日々がこれからも続いていくのだろうか。  一度は心を決めたつもりだった。なのにほんの些細なことでそれは揺らぐ。そういう性分であることはわかっていたつもりだけれど、このことについてはそれは困るとレイは考えていた。土台が弱いとすべてが崩れる。今のままではそれは遠くない未来に起こるだろうと思った。 「……先生」 「何?」 「高浜さんは……これからも薬を飲まないといけないのでしょうか」 「……どうして?」 「……ずっと、これからも……ここに通うのでしょうか。僕がいても……いなくても……」  五嶋は初めて眉を寄せた。レイの意図が読めないようだった。 「君がいることで……良いほうへ行くと、僕は信じているけど?」 「……そうですか……」  視線を五嶋に戻すと、レイはほんの少し微笑んだ。 「先生、……高浜さんは、強いですよね」 「…………?」 「僕は、そうなれるでしょうか?」  五嶋はしばらく考えた。ここが彼の分岐点になると思った。 「……君は、なれる。きっと、強くなれるよ」  レイは笑った。初めて見るレイの笑顔は年相応のとても少年らしいものだった。 「……ありがとうございます」  夜になり病院を閉めるという時になって高浜が飛び込んできた。診察の予約がなくても彼がこんなふうにやってくることはままある。高浜の言いたいことはわかっていたので、聞かれないように受付の女性を帰して高浜の前に立った。 「……おまえ、今日、レイと会ったか?」 「診察だもの。来たよ」 「連絡が取れないんだ」  五嶋はしばらく間を置いて近くのソファに座った。眼鏡を取り小さく息を吐く。 「……やっぱり、そうだったか」 「何?」 「……今日の彼は、様子が違っていたからね」 「おまえ、何で、そのことを俺に話さないんだ!」 「守秘義務だよ。……これは守らないと」 「俺のことはしゃべっただろう!」 「あれはいいんだよ」  高浜は携帯を取り出してレイの番号を押した。だが向こうからは無機質な女性の声が「この電話番号は使われていません」を繰り返すだけだった。 「いったいどうして……!」 「……まぁ、座ったら」  高浜はかっとして自分の眼鏡を足元に叩きつけた。 「おまえ、いったい何を言ったんだ!」 「……何も。彼は、おまえのことだけを、心配していたよ」 「……それで」 「僕は、間違ったことを言ったとは思ってない。でも、彼の中で、それはダメだったんだ」 「……意味がわかるように言え」  高浜は五嶋の隣に乱暴に腰を下ろした。 「おまえのことを、強い人だ、と言ってたよ」 「……レイが?」 「僕にしてみれば、大学時代から、おまえはダメ人間だった。辛いと女に縋り、他人の人生までもダメにする。それもダメになれば自殺未遂に走る。過去に呪縛されて、いつまでも逃れられない、ダメ人間」 「……五嶋」 「おまえは男の僕にまで「助けてくれ」ってしがみ付いて。僕が精神科医になったのは、おまえを助けるようなもんだ。……まぁ、それはいいとして」  五嶋は眼鏡を指で遊んだ。 「でも……違ったんだよな。おまえは、決して過去から逃げたくなかった。だから、どんなことをしても、生きたかった。生きて、弟さんに会いたかった。そのために人を踏み台にするんだ、ある意味、確かに強い、というか、……まぁ、したたか、というか」 「……それで、レイがいなくなったのと、どう関係があるんだ」 「だから、おまえは、一人でも生きていけるってこと。……もう、目的は、果たしたんだから。……苦しまなくても、いいんじゃない?」 「……五嶋」  呆けたような表情の高浜に五嶋は笑った。 「弟さんと、会えたんでしょ?」 「……けど」 「……けど、……兄弟、っていう括りを越えてしまった。……彼は弟でありながら、おまえの一番愛している人になっていた。……彼もそう」 「……いつから」 「おまえが彼を連れてきた時から。とても、よく似ていた。顔とか、そういうんじゃなくて、……雰囲気が、とても。ただ、おまえはまだ気付いていなかった。僕は彼に釘を刺した。……彼から離れろと」 「俺が瑞樹にどれだけ会いたがってたか、おまえが一番よく知っていただろう! ……そうか」 「……おまえは、あの時、もう彼に心を奪われていた。……こうなることを怖れていた。……でも、……これでよかったんだ、と、僕は思う」 「五嶋」  五嶋は真っ直ぐ前を向いて大きく息を吐いた。 「おまえも、彼も、今はまだ向き合うには早いんじゃないかな」 「……どうしてだ……どうしてそれがいけない……」 「支えになってやれるか? 互いに」 「支え合って生きていくことの何が悪い」 「そう、人は支え合って生きている。でもね、今、二人とも、ボロボロじゃない。そんな力、残っているようには、見えないんだよね」  高浜は握り締めた拳で膝を叩いた。 「だからって……! こんなふうに別れるなんて……!」  搾り出すような声で高浜は言った。 「……彼はもう、おまえとの未来を見つめていたよ」 「…………?」 「彼は「僕は強くなれるでしょうか?」と僕に聞いた。「僕も」じゃなくてね。おまえのことは、大丈夫だと、信じて」 「…………」 「彼は、おまえと一緒に生きていく未来のために、今、一人になる道を選ぼうとしていた。だから僕は、後押しをした。「君は強くなれる」と。彼は、きっと大丈夫。……おまえも」 「……奥が深い世界なんだな」 「そう。だからおまえには無理なの」  五嶋は眼鏡を掛けると神妙な面持ちで言った。 「待っていて、あげられない?」 「……待てそうにない」 「……だからおまえはダメなんだよな……」  五嶋は立ち上がると白衣のポケットに両手を入れた。 「少し、薬の見直しをしよう。それと、カウンセリングに力を入れる」 「……おまえと面合わせんのかよ……」 「いいよ、別に。他のカウンセラーを紹介しても」 「……いや、いい……」 「別に、そんなに嫌そうにするなら、こちらからお断りする」 「いや、……お願い、します……」  笑われるかと思ったが五嶋は俯いている高浜の肩に手を置いた。小声でごめんと謝罪の言葉が聞こえた。 「…………?」 「こうなったことには、僕にも責任がある。……もっと医師として、的確に対処しなければならないことだったのに、……おまえに、ただ生きていてほしい、……その一心で……」 「……五嶋」  見上げると五嶋はいつものように微笑んでいた。 「彼にまた出会う日が、必ずやってくる。……その日まで、頑張ろう」 「……そうだな」 「……そう、だったの……。レイが……あなたの……」  レイが弟だとそう真優子に伝えたのはレイがいなくなってから一か月後のことだった。いつものように真優子の店に行きカウンターに座っているとレイを初めて見た時のことを思い出す。  初対面なのにどこか懐かしい。何かを諦めているかのように物思いに沈んだ表情をふとした瞬間にする。それがいつの間に恋情に変わっていったのか今でもわからない。血の成せる業なのか、それともこの血が繋がっていなくともやはりこの想いは必然のものだったのか。 「……あなたと、レイは……」  真優子が言葉を濁す。真優子に嘘はつきたくない。高浜ははっきりと伝えた。 「一線を越えた。……自分に、嘘はつけなかった」 「……そう」 「気味が悪いかい?」 「……まさか」  真優子は高浜の隣でふっと息をついた。 「今、レイはどこにいるのかしら」 「わからない。……本当は今すぐにでも会いたい。でも、それじゃ、ダメなんだ」 「あら。とっくに調べて、居所くらい、掴んでいるのかと思っていたわ」 「まぁ……そうしたいのは山々なんだが」  そうしかけた、とは言えず、高浜はグラスを手にした。 「最初は心配で心配で、……でもその心配は、自分の不安だと、気付いた。だから、今は考えないで仕事に打ち込むようにしてる。……あの子は俺よりも苦労しているから、……きっと大丈夫だと信じてる」 「信じてる。……いい言葉ね」 「言い聞かせている部分が多いんだけどな」  真優子が表情を和ませた。 「何だかとてもいい感じね。目が優しくなって。……怖くなくなったわ」 「怖い?」 「怖かった。以前はもっと雰囲気がぴりぴりしてて、時々、どうしていいか、わからなかった。凄腕で怖いってのもあるんだけど、……それ以上に、ふいにやってくる脆さが怖かった。そう、それが一番、怖かった」 「……すみません」  高浜が少し頭を下げると真優子はその頬にそっと手を当てた。 「もう、そんなことはないのね。……レイがいなくても。私がいなくても」 「それは無理ですよ」 「あら。どうして」  高浜はその手を握り締める。 「俺は自分が思っていたより、ずっと弱い人間でした。……もう、心配掛けたりはしません。薬を飲んだりも。……でも、時々、こうやって会ってもらえますか?」  真優子は笑って頷いた。 「私はいつもここにいるわ。いつでも。心配しないで」 「……そうですね」 「どうしたの?」 「友人に言われたんです。おまえはダメ人間だって」 「あら」  真優子は面白そうに笑った。 「あなたが? あなたにそんなこと言うなんて、すごい方ね」 「他人を利用して、踏み台にして、……そんなつもりはなかったけれど、よく考えれば、そうだったのかもしれません。俺の弱さで、沢山の人を傷つけた。そいつも、亜由美も、レイも。……あなたも」 「……高浜さん」  握った手に力を込めて高浜は真優子を静かに見つめた。 「俺は……」 「高浜さん」  真優子はその先を言わせなかった。謝られたら自分の残り少ないプライドが粉々になる。二人の間で自分の立場はもう決まった。レイを姉のように見守る。高浜のよき友人でいる。今までの自分の気持ちはそっとしまっておきたい。二人が真優子の想いに気付いているとしてもそれに触れることはしてほしくなかった。  真優子の小さな願いを汲み取ったように高浜は小さく頷き手を放した。  二人で外に出るとあまりの寒さに身震いする。これから本格的な冬になる。レイが一人で年を越そうとしているのにやっぱり自分は身勝手でどうしようもなく弱い人間だとしみじみ感じる。  そんな無言の高浜の横で真優子はコートの襟を立てながらやはり黙っていた。レイがどこにいようとも真優子は高浜ほど心配はしていない。それはそんな遠い日ではなく必ず高浜のところに彼が帰ってくることを確信しているからだ。帰る場所があるというのは幸せなことだと真優子は思う。だからレイはこの寒い中でもきっと温かな気持ちで過ごしているに違いなかった。 「……真優子さん、寒いから、早く中に」 「ええ。ほんと、寒い……」 「温かくして休んでください」 「ありがとう。あなたも」  どちらともなく抱き合ってしばしの別れを告げる。  その様子を建物の陰からレイは見つめていた。心から好きな女性がそこにいた。いつも優しさと包み込むような愛情で見守ってくれた真優子。そして。心から愛する人がいた。ほんの少し会わなかっただけで涙が出そうになるほど。胸が痛んで仕方がないほど。それでも今は会えない。自身の気持ちの整理がつくまでは。  歩き出す高浜に見つからないように俯いてフードを深く被った。人を待つフリをして足元に視線を落とす。しばらくして顔を上げると高浜は立ち止まっていた。何も変わらない街角でまっすぐ前を向いていた。  そう。何も変わらない。高浜に、レイにとって互いがいなくとも次の朝はやってきて世界はあわただしく動いていく。その不断の孤独に耐えられるように。愛することは寛容の、信じ合うことは忍耐の始まりでもある。互いにマイナスからの始まりでこれからも決してプラスになることはない関係の中で頼れるのは自分と相手だけ。形のないものだからこそ、今の時間が必要なのだとレイは考える。高浜にもこの気持ちは理解してもらえていると思う。思いたい。  それでも涙が浮かんで留めておきたい高浜の横顔が滲んで見える。こんなにも想っていることを高浜は知っているだろうか。血が繋がっていても、血が繋がっていなくても愛している。見つめているだけで胸が苦しいほどに。  高浜が歩き出す。レイは深呼吸する。遠くないいつか。きっと会いに行く。その時を一日一日夢に見て自分は生きていく。少しでも高浜の支えになれるように。しなければならないことはいくらでもあった。  冷たいけれど二人の間に降る雪は優しく、高浜をゆっくりと隠していった。 了

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