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第14話

 近くのホテルに飛び込むとレイはすぐに風呂に入れられた。その間、高浜は真優子に連絡を入れ部屋を暖めたり飲み物を用意したり、と忙しく動いていた。 「……高浜さん」  タオルで半分顔を隠しながらレイは視線を外して高浜を見た。「高浜さん」。そうとしか今はまだ呼べない。急に兄、と呼ぶのは躊躇われた。高浜はバスローブに着替え終わっていてソファに座り足元をヒーターで暖めているところだった。 「……お風呂に入ってきたほうが……」 「いい。また、おまえがいなくなったら、困る」  レイは高浜の前に座り、目の前に置いてあるカップを覗いた。 「コーヒーしかない。それを飲んでくれ」  レイは頷くと両手でそれを持って口をつけた。高浜の視線が痛い。  奇妙な沈黙。レイは窓のほうを眺めた。外はもう暗い。真優子にはもう連絡が入っているのだろうか。それを尋ねようとして口を開くと急に高浜が立ち上がった。レイはびっくりしてカップを落としてしまった。 「…………っ!」 「……レイ!」  膝の上にタオルを乗せていたので火傷はせずに済んだが絨毯に染みが広がっている。レイは慌てて立ち上がった。タオルを片手に床に跪こうとすると急に腕を高浜に引かれた。驚いてレイは高浜を振り返る。真剣な眼差しにレイは息を詰めた。 「……高浜さん?」 「……来い」  高浜の行動の意味がわからず、とにかくレイは高浜に腕を引かれるまま寝室に入る。急にベッドに座らされいきなり口付けられる。レイは驚いて高浜を押し退けようとしたが両手を押さえ込まれてシーツへと沈められた。高浜の身体が重なってきてレイは首を振った。 「……た……か……」  反り返った喉を高浜の唇が痛いほどに吸ってきてレイは呻いた。 「高浜さん……何を……」  高浜は何も言わずレイの腰の紐に手を伸ばしてきた。それを押さえようとするが高浜の身体が邪魔をしてなかなか手が届かない。するりと解かれてレイは小さな悲鳴を上げた。 「……やめて! 高浜さん!」 「……どうして、俺をそう呼ぶ?」 「…………?」 「なぜ、兄の俺を、その名前で呼ぶんだ」  レイは思わず黙り込む。高浜悟は確かに兄で。兄だけれどレイの心は……。  想いを見透かされたようでレイは頬が熱くなるのを感じる。誘ったのは自分だった。あの時もそうだった。血の繋がった実の兄だと知っていながら。初めは復讐のつもりだった。弟である自分を抱かせてすぐに消えるはずだった。高浜に一生消えない傷を付けるはずだった。だがそれは忘れてほしくない、死ぬまで覚えていてほしいという願いの裏返しだった。それを一瞬の内に思い出しレイは何も言えずただ高浜の視線に耐えた。 「……俺は、おまえを、愛している」 「…………」 「……弟だとわかった今も。それは変わりない。……自分に嘘をついて、おまえを手放すのはやめる」 「……でも……」  泣きながら別れたあの日。いつまでも振り返っていた兄。忘れられない。ずっと迎えにきてくれると信じていた。待って待って待ち疲れた。もう待ちたくない。こうして出会って一緒にいられるならばそれだけで何もいらない。けれど。どうしても兄とこんなことをするのは不自然だと思う。そう思いながら何にも代えがたいほど高浜を愛しているのを自分が一番よく理解している。兄だとわかっていても。きっともう一度離れたら……。 「おまえは、……必ず死ぬだろう……。俺と別れたら……俺が手を放したら……だから、おまえを、死なせたくない」 「……そんなこと……」  思っていることをそのまま指摘されてレイは視線を落とした。 「……随分と、自信家なんだね……」 「……おまえのことが、わからなかった。近付けば、近付くほど。けど、……俺と同じなんだって、やっとわかった。俺が、俺自身を理解できないようにおまえも自分自身がよくわからなくて。でもこれだけはわかった。どんなことをしても……たった一度だけでいいから……」  高浜の唇が恭しくレイの額に触れた。 「……俺はおまえに、おまえは俺に、会いたかった。ただ、それだけは」  レイは瞼を閉じる。目尻から涙が溢れる。そう。それだけ。様々な感情に翻弄されてそれでもその想いだけは確かにあったこと。それだけは今よくわかる。高浜が同じ想いでいてくれることが嬉しい。ずっとそばにいたい。許されるなら。いつまでも高浜の隣にいたかった。 「……本当は、賭けてたんだ」 「……何を」 「……おまえが風呂場から出てきて、何て俺のことを呼ぶか」 「…………」 「これから、どうしようか、悩んだ。だから、兄と呼んだら、兄として、高浜と呼んだら、高浜として接していこうと」 「……そんな、勝手な」 「……俺だって、弱いんだ。……だから……」  唇が塞がれる。温かな唇にレイは身体の力を抜いた。 「……だから、俺と一緒にいてくれ……レイ」 「……高浜さん……」  別れたあの日に二人は心に大きな空洞を抱えた。それを埋めることはできないかもしれない。けれどやっと今その欠片を掴んだ。  流されるのではなく互いが選んだ道。手を繋いでいよう。過去を振り返らず未来を望むこともなく。ただ今、この瞬間、いつでも隣にいよう。 「高浜さん……あなたを……」  レイは高浜の大きな背に両手を伸ばした。強く強く力を込めて抱き締める。 「あなたを……愛している……」 「レイ……」  唇を重ね指をもどかしく絡ませながら二人は何度も抱き締め合った。深い夜が二人を優しく包んで、いつもより長く時が流れていくような気がした。 「……レイ?」 「……あ、おはよう……」  口をつけていたミネラルウォーターのボトルを差し出す。すると高浜が半身を起こしてしばらくバスローブ姿で立っているレイを見つめた。 「……何?」 「……いや、また、だまされるんじゃないかって」 「…………」  あの朝。睡眠薬を入れてボトルを渡した時のことを言っているのだ。レイは気まずくなって視線を逸らした。 「……何が薬はもう飲まないで、だ」 「…………」 「俺だからよかったものの、あんなもの普通の人間に飲ませたら、……」  高浜がレイの方に手を差し出した。ボトルを渡そうとすると高浜はそれを持っている左手首を引き寄せた。 「……やっ……」  ベッドの端に腰がバウンドする。背後から高浜の温かな胸が被さってくる。ゆっくりと身体を抱き締められてレイは目を閉じた。首筋に熱い吐息を感じる。 「……危ない……」 「……放したくない」 「…………」  昨夜の追い縋るような高浜の動きを思い出してレイは思わず身体が熱くなる。だが逆に意識は冴えていく。いいのだろうか。このまま一緒にいて。このまま一緒にいたらどちらもダメになるような気がして。  きっと相克する想いがいつでも心にあってどちらに落ち着くことも決してない。レイはきつく抱き締めてくる高浜の腕に指を絡ませる。そう。今のこの瞬間だけを信じて生きていこう。 「……離れないよ」  自分からは決して。そう心の中で呟いてレイは密やかに微笑んだ。  これからどうすればいいのか。二人はいくつかのことをどうしても決めなくてはならなかった。兄弟でありながら兄弟で一緒に住むことを一番怖がったのはレイだった。 「……じゃ、真優子さんのところに帰るのか」 「……それは……」  テーブルを挟んで二人はソファに深く沈んで神妙な面持ちで言葉少なに語り合った。相変わらず高浜は酒を飲んでいる。それを見てレイはやはりダメだと思った。高浜を一人で置いておけばまた何をするかわからない。高浜はレイの視線の先にあるグラスを見て苦笑した。 「……ああ、そうだな」 「…………」 「おまえがいないと、多分、俺は荒れる。生活が不規則なせいもある。仕事もはっきり言えばキツい。薬を大量に飲むわけは、五嶋に聞いただろう」  レイは嫌な顔をする。五嶋とは示し合わせてあんなことをしているのか。タチが悪すぎる。それにそうやって言葉でレイを縛ろうとする高浜の癖が嫌なのだ。そしてその時の人を困惑させるクセのある笑みも。 「……真優子さんが、どんなに心配しているか……」 「おまえを、五嶋に任せることにした」 「……え?」 「あいつのクリニックに通うんだ」 「嫌です」  高浜は笑った。 「久しぶりに聞いたな」 「僕は病気じゃない。それに……あの人は、苦手だ」 「俺に似ているからか?」  レイは上目使いに高浜を睨んだ。高浜がおかしそうにそれを見て笑う。 「発作的に倒れたり、飛び降りようとしたり。……何もむりやり薬を飲めって言ってるんじゃない。五嶋と話せ、と言ってるんだ」 「嫌です」 「……レイ」 「あなたとのことがあったから。あんなふうになっただけで……」 「……これからも、俺とのことは続くんだぞ」 「…………」  レイは息を呑んだ。そうか。会えないための苦しみは終わったが、これからは一緒にいるための苦しみが始まるのか。レイはほんの少しだけ頷いた。 「……よかった」 「……真優子さんに……」 「俺達が兄弟だということは、話さなくていい。必要ない。……おまえは、亜由美の弟。それでいい」  ただ好きだから、一緒にいたい。それだけなのに。レイはため息をつく。高浜が立ち上がってレイの隣に腰を下ろした。肩を抱かれてレイは高浜の肩に頬を押し付けた。 「おまえはまだ、十七だったな。酷なことを言い過ぎてる。でも、どうしても、おまえは子供に見えなくてな。つい、頼っちまうことが、多々、あると思う。おまえはそんな俺を見て、失望しないかって……」 「……関係ない」 「……レイ」 「そんなの、関係ないよ。……年とか……僕達は、対等……そうでしょ?……あなたが僕に失望……」  レイは少し間を置いた。そう。もしかすると高浜のほうが自分に失望するかもしれない。レイより先に。 「失望させないように、頑張るから。……あなたのそばにいるためなら、……何でもするから……」 「レイ……」 「あなたを、愛している」  涙が頬を伝うのを止められない。こんなにも愛してしまった。同じ血の成せる業なのか。何もかもがもう止められない。だから二人は歩き始めるより他に方法がなかった。

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