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第13話

「……レイ? レイなんでしょ? そうなのね?」  真優子の緊迫した声が耳を打つ。彼女にどんなひどいことをしたのか。だがレイは自分の死で償うつもりだった。それは卑怯だとわかっているがもう疲れ切ったこの身に出来ることはそれしかない。レイは絞り出すように言った。 「……ごめんなさい……真優子さん……」 「声が……レイ、今、どこにいるの? 高浜さんと、一緒じゃないの?」 「……本当に……あなたには……」  そう。高浜のしたことを自分は責められないのだと今更思い知る。真優子の想いを知っていて知らない振りをした。真優子の優しさに甘えて逃げた。 「……ごめんなさい……でも……これだけは……あなたを……とても、とても好きだった……」  愛してる。それとは違うけれどこれほど安心できた他人は真優子以外いなかった。それだけはわかってほしかった。 「ちょっと待って。レイ、あなた、今、どこに……!」  受話器を置く。駅前の電話ボックスから出るとレイは改札へと向かった。  何もかもが始まったあの場所へと還るために。 「…………?」  いつまでも響く耳慣れた音にやっと起き上がった高浜は隣にレイがいないことに愕然とした。足元のバスローブを引き寄せて羽織るとリビングへと早足に向かう。ソファに置いたままのコートの中の携帯を取り出すと画面を確認する。 「……真優子さん!」 「高浜さん、レイは! 今、そこにいるんじゃないの?」  高浜は携帯を耳に当てたまま手当たり次第探したがどこにもレイの姿はなかった。よく見ると持ち帰ったはずのレイの洋服がそっくり無くなっている。玄関に走るとレイの靴も無かった。 「……すまない、どうして……!」  高浜は髪をかき乱した。どうして。今まで睡眠薬を飲んでも浅くしか眠れなかったはずなのに。抱き締めていたはずのレイが起き上がったのなら絶対に気付いたはずだ。いくら疲れていたからとはいえ……。  高浜はふいに台所へと回り込んだ。ゴミ箱の蓋を開けると通常よりも少し多い睡眠薬の空きシートが投げ込んであった。レイから受け取ったミネラルウォーターのボトル。初めから空いていた……。 「レイから、電話が……それで」 「レイから? 何て?」 「……謝って……だから、今どこにいるのか聞いたの。高浜さんと一緒にいるんじゃないの? って。そしたら、……切れちゃって……」 「どこにいるかはわからないか……」  真優子の泣き出しそうな声が途切れ途切れになる。 「……何だか……とても思いつめたような……。とても……嫌な感じが、して……」 「……必ず、連れて帰ります。必ず」  真優子に約束はしたものの高浜はどうしたらいいかわからなかった。  亜由美に連絡を取るしか方法がない。だがもう亜由美はいない。実家に電話するか。しかしレイが実家に戻るとは考えにくかった。いつも頼んでいる探偵に頼むとしても名前さえもわからない少年の行方を探し出せというのはあまりにも荒唐無稽な話だ。どうしたらいい。高浜はとりあえず着替え、とにかく探偵に連絡を入れることにした。  亜由美の弟の情報を今すぐ集められるだけ集めてほしい。そして亜由美の墓がどこにあるか。もしかするとそこに立ち寄る可能性もある。大至急いくら金がかかっても構わないと言ったのが効いたのか一時間後にはその探偵から亜由美の実家方面に車を走らせている高浜の携帯に連絡が入った。 「はい、高浜です」 「ああ、私です。杉原亜由美さんの件で」  高浜は路肩に車を寄せて手帳を取り出した。 「弟の名前は」 「ええ、杉原涼です。涼しい、と書いて、涼。地元の高校を中退して、すぐに家を飛び出しているそうで、行方は誰も知らないと。親さえも知らないそうです。年は十七」  涼、というのか。高浜はペンを走らせながら不思議な気持ちになった。言いなれているせいかレイという名がしっくり合っている気がした。 「ですが、行き先を割り出しました」  さすが高浜の信頼している探偵だ。この短時間でそこまで調べられるとは。ほんの少し高浜の心に光明が差した。が次の瞬間それは見事に消え去った。 「歌舞伎町でホストをやってるそうですよ。店ではナンバーワンだそうで……」 「……ちょっと、待ってください。それは確かですか?」  探偵が自信を持って答える。 「ええ。店の名前は「リップス」です。それから、亜由美さんのお墓の件ですがね……」  探偵の方が奇妙な声音になった。 「……まだご存命ですが……」 「……何ですって?」 「今は結婚されていますので相川亜由美さんとなっていますが。神奈川のほうに嫁いだそうですよ」 「……そんなバカな……!」 「……どちらか、他の探偵さんでも? どちらを信用なさるかはご自由ですが、……間違いないと思いますよ?」  電話が切れる。高浜は目を見開いて窓の外を見つめた。手帳とペンが足元に滑り落ちる。そんなバカな。レイは。レイは……。 ──……亜由美は、どうした。  そう思った。亜由美から弟の名を聞いたことはなかったが仲が良いとは聞いていた。年が十七だということも。 ──……それは、あなたが一番よく知っていることでしょう……? ──……まさか……。  そう。そのまさかだと思った。高浜を刺したあの亜由美の絶望しきった瞳を忘れられなかったから。 ──死にましたよ。手を離してください。  亜由美が。姉が、とは言わなかった。  高浜は口元を片手で押さえた。 ──あなたが望んだ通りになったでしょう?  レイは今まで一度も「姉」と口にしたことはなかった。  思い込んでしまった。レイが亜由美の「弟」だと。面差しが似ていたから。感情さえもわからなくなってしまったほどに。  あの時のレイの薄笑いを思い出す。冷たい何もかも切り捨てたようなあの諦めの笑みを。あれは……。  高浜は両手でハンドルを思いきり叩いた。何度も何度も。そして額を叩きつけた。涙が滲む。唇から血の味が口の中に広がった。  傷ついて。辛くて。疲れて。死にたくて。  でも、同じ想いで、……どうしても、会いたい人が、いて。  たった、一目だけ。たった、一目だけでいいから……。  高浜は叫んだ。心の底から叫んだ。  砂浜がこんなにも歩きづらいのを久しぶりに思い出した。  兄弟だろうか。青いボールを追い掛けながらレイの前を走り去っていく。楽しそうな笑い声にレイは思わず唇を緩ませた。  波の音が寄せては返す。ここでいつも遊んだ。何も変わっていない。なのに自分の心はこんなにも変わってしまった。もう何も自分には残されていない。突然強い風が吹いてきてレイはセーターの襟元を押さえた。するとふいに高浜の愛用している香水の香りが温かくレイを包み込むような気がした。ぼんやりとレイはしばらく鉛色の海を見つめていたがやがて足を引きずるように波へと近付いていく。  自分がこれまでしてきたことには何の意味もなかった。ただ多くの人を傷つけ自分も哀しくなるだけだった。あの時死ぬはずだったのに。なぜ今自分はここにいるのだろう。こんな姿になってまで、まだこの世にいる意味はもうない。後はもう消えるだけだ。  足元が揺らぐ。波に引き込まれるようにレイは少しずつ海の中へと歩を進めていく。急に砂が沈んで膝まで浸かる。身体が揺れる。その時だった。 「……レイ!」  レイは始め聞き間違いだと思った。 「レイ! ……やめるんだ!」  振り向くとまばらに揺れる前髪の隙間から走ってくる高浜の姿が見えた。レイは怯えて急いで海の中へと慌てて進んだ。 「レイ!」  派手に水が弾ける音がしていきなり背後から腕を掴まれる。レイは目を閉じて全身の力で振り払おうとした。だが高浜の力はそれ以上に強くレイは引き摺られるようにして浜辺へと歩かされた。 「……いや! やめて! 放して!」  高浜は知ってしまったのだ。何もかもを。ここにきたということは、そういうことだ。恐ろしくなってレイは何度も叫んだが高浜もレイの痛みなどおかまいなしに力ずくで腕を引いた。怖くて高浜の顔を見ることが出来ない。砂浜に引き戻されてレイはその場に座り込む。目の前に立った高浜の足だけが見える。レイは唇を噛んだ。 「……どうして……こんなことを……」  高浜も動揺していた。当たり前だ。レイの行動すべてが高浜にはわからないだろう。レイにさえわからないのに。  高浜と会うことなどないと、きっともう二度と会うことなどないだろうと心のどこかで諦めていた。会いたくて会いたくて。けれど会ってしまった。会ってしまったことでレイは自身の心のコントロールができなくなった。そうして事態は悪化してとうとうここまで来てしまった。 「……すまない」  レイはほんの少しだけ顔を上げた。黒いロングコートの裾が揺れるのを見つめる。急に低い笑い声が聞こえた。それが自分の声だとわかりレイはぎょっとしたがその後はもう止められなかった。 「……すまない、って……何が?」 「……レ……」 「……人が死んだ後、そのままにしておくと、どうなると思う……? 身体が硬くなって、紫斑が出てきて、そのうち腐臭がしてきて、その後……」 「……レイ!」 「……「レイ」って、誰?」 「…………っ」  止まらない。おかしい。自分が言っていることはおかしい。こんなことを言いたいのではない。言いたくはない。だが次々と言葉が飛び出てきてそれを止めることができない。 「……声が出なくなるって、どういうことだかわかる? 泣くこともできないんだよ、泣くことさえ! ……どうして声が出るようになったか、教えてやろうか。六歳の時、叔父にレイプされたからだよ!」 「……やめてくれ……」 「やめてくれ? それからもいろんな男や女に抱かれたさ! 誰でもよかった。警察に掴まりそうになったことだって、人に言えないようなことも、いろいろしたさ! ……な……」 ──何のために?  レイは喉を押さえた。何のために? なぜそんな思いまでして生きてきた? たったひとつの儚い望みのためではなかったか? 自分は本当は生きたかったのではないか? そして願いが叶ったというのに。  自分は多くを望みすぎたのではなかったか? たった一目会うだけで本当はよかったのではないか? 恨み辛みを言いたいのではない。何をしてほしいのでもない。  だがあまりにも自分は未熟だ。会ってしまって少しずつ高浜に求めることが大きくなりすぎてしまっていた。本当は会ったあの日。そのまま消えればよかった。ただそれだけのことではなかったか。レイは目を強く閉じた。言葉はもう戻らない。 「……ごめんなさい……」 「……なぜ……謝る……」 「こんなことを……言いたかったんじゃ……ない」  レイは前髪を強く握り締めた。 「……僕は、……ただ……ただ……」  高浜が膝を突いてその手を優しく解いた。温かい。 「あなたに……兄さんに……ただ、一目だけ……会いたかった……!」  強い腕に抱き込まれてレイは涙を流した。とめどなく溢れる。  会いたかった。会いたかった。会いたかった。ずっと、それだけを願ってきた。そして、今、こうして、想い出の場所に高浜は来てくれた。もう、それだけで十分だった。 「間に合って……よかった……」  高浜の吐息がレイの首筋に触れる。 「今度こそ……間に合った……そう思うのは……俺の、自己満足か……?」  レイは小さく首を振った。高浜がどんな思いをしてここまで生きてきたか出会ってから少しの間だがよくわかった。自分に会うために危ない橋を渡ってきたこと、愛するという感情がわからなくなってしまい自殺未遂までするようになってしまったこと、生きている意味がよくわからなくなってしまったこと。自分が歩いてきた道と違うけれどそれはよく理解できるような気がした。歪んだ感情を互いにぶつけあってしまったかもしれないがそれは仕方のないことだと。長い長い回り道をしてしまったがもしかしたらこれからやり直せるかもしれないとレイは都合がよくても今はそう信じたかった。

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