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第12話
「……ほら、水だ。……気分はどうだ?」
部屋に戻るとレイはすぐに寝室に直行した。もう立っていられなかった。ひどい疲労感でどうしようもなかった。身体を丸めて目を強く閉じたまま高浜の視線を感じていた。
「……ここに置いておくから、飲みたい時に飲むといい。……俺は向こうにいるから」
立ち上がろうとした高浜の手首を手探りに掴むとレイは力を込めて握り締めた。何も伝わらない。何も伝えたいことがないから。例え伝えたいことがあったとしても自分と高浜の間には深い溝があって、それはどんなことをしても埋まることがない。伝えられない。墜ちるだけだ。高浜のため息が聞こえた。
「……レイ。五嶋と、何かあったのか」
レイは弱々しく首を振る。
「顔が青い。……あいつははっきりとモノを言うヤツだからな。気に障ることを言ったなら済まない」
もう一度首を振る。レイは目を開いた。掴んだ手を放しその手のひらを指でなぞった。
「……何だ?……も、う……?」
──もう、くすりは、のまないで。
「……どうした。急に」
レイは続けて指を動かす。
──おさけも、もう、あんなにのまないで。
「……レイ」
高浜は困惑したようにレイの横顔を見つめた。
──ぼくより、さきに、しなないで。
「……レイ」
高浜は空いている手でレイの髪を撫でた。
「……どうした。いきなりそんなことを」
──あなたを、ころしたいほど、にくんでいる。もっと、いきて。くるしんでいきていって。しぬまで、くるしんで。
「……わかっているよ」
自分の指が震えているのがわかる。視界がぼやけてレイは弾む息を堪えきれず口元を押さえた。高浜の温かな手が頬を撫でた。
「わかっているよ、レイ。約束する。俺は死ぬまで苦しむだろう。弟を、亜由美を、おまえを……こんなに苦しめた罰として」
レイは両手で顔を覆った。もう聞いていられない。
「おまえは、生きて、それを見守ってくれ。俺が苦しんで死んでいく姿を見て、笑ってやってくれ」
「…………っ」
レイの震える両手が差し伸ばされる。その瞬間レイは高浜の腕の中に抱き込まれていた。息苦しくなるほどの力に負けないようにレイも力を込めて高浜の背に両手を伸ばした。どんなに抱き締め返してもひとつにはなれないもどかしさにレイは唇を噛む。
高浜に魅かれていた。ずっと魅かれていた。高浜の視線も十分に感じていた。知らない振りをしていた。加速していく気持ちに付いていけない身体がバランスを崩していった。わけのわからない衝動でバラバラになりそうだった。そうして声を失った。あの時と同じように。あの時も高浜を憎んだ。憎んで憎んでそしてその想いだけが募りレイは生きてこられた。だがそれが愛情の副産物であることをやっと今知り得た。愛しすぎた果ての憎悪は激しすぎてもうこの身を焼き尽くすだろう。レイはすべてが終わる予感に震えていた。
「レイ……泣くな」
レイは首を振った。けれど涙が止まらずただ高浜にしがみつく。あやされるかと思ったが高浜はレイを覗き込むといきなり唇を合わせてきた。一瞬突き放そうとしたがその手はそのまま高浜の首にしがみつくような形になった。顔を逸らして喉が鳴るまで唇を重ねられ、そのままゆっくりと背をベッドへと沈められた。高浜の冷たい指がセーターから忍び込んでくるとレイの身体が少し跳ねた。唇が離れると目の前に優しい高浜の瞳があった。そう。こんな優しい目をする男なのだ。本来の高浜は。レイは視線を外さずに高浜の言葉を待った。
「レイ……俺は……」
「…………」
「……ずっと……考えていた。おまえに対する気持ちが何なのか。亜由美の轍を二度踏まないためにも……。俺は……」
レイの頬に涙が一筋流れた。
「……おまえを、…………」
レイの唇がそれを言わせない。縋り付くような口付けの合間に高浜は吐息とともに答える。
「……大事……な……こと……なん……」
聞きたくない。何も聞きたくない。ただ流れに身を任せたい。高浜にもその流れに乗ってほしい。それは身勝手なことだろうか。レイは高浜のシャツのボタンに指を掛けた。素早く高浜の手がその指に掛かる。レイは少しだけ唇を外した。間近に見る高浜の瞳。こんなに真剣な瞳を自分は受け止められない。
「……もう、止められないぞ」
レイは頷く。目を閉じて覆い被さってくる高浜の重みを感じる。決してしてはならないこと。わかっている。わかっているけれど。
自分が生きた証として。この時間を高浜の中に死ぬまで留めておきたかった。
「……ん……っ」
高浜の濃厚な愛撫にレイは思わず身体をずり上げようとする。その度に引き戻されてまた指を絡められる。声が出ないのが苦しい。喉が詰まって何度も咳き込む。高浜の唇が重ねられ唾液を注ぎ込まれる。それを飲み干しながらレイは高浜の髪に指を差し入れ喉を仰け反らす。言葉が無くともこんなふうに抱かれれば高浜の心の内が丸見えだ。それが嬉しくもあり、苦しくもあり、辛くもあり、レイは様々な感情に翻弄され何度も首を振った。
「…………っ!」
膝の裏に手を掛けられて思わずレイは目を見開いた。当然求められる行為だとわかっていたが急に身体に震えが走る。一瞬高浜はレイの視線を受け止めたがそれに構わず手に力を入れた。
「…………っ!」
レイは両手で高浜の肩を叩く。高浜は強引に腰をレイの両足の間に割り入れた。高浜の熱い昂ぶりが触れてレイは首を振った。
やめてくれ、と視線で懇願しても高浜は聞き入れてくれない。指がレイの秘所に触れて思わず身体を捩る。
「……どうして、泣く」
静かに問われてレイは動きを止める。自分が望んだこと。それなのに。様々な想いがレイの中で交錯する。いいのだろうか。本当にこれでいいのだろうか。自分はすでにおかしくなっていて善悪の区別もできなくなってしまったのだろうか。長い年月の間考えて考えて。──それでも。今自分がどうしてもこの手に入れたい唯一の人。高浜が罰を受けるというのなら自分も罰を受けよう。同じ生命を賭けて。愛している。高浜をただひとりの人間として愛している。何にも代えがたいほどに。
レイは首を振る。両手を伸ばして高浜を引き寄せる。高浜は濡れた指で十分にレイの入り口をほぐすとそこへゆっくりと身体ごと進んできた。息を詰めそうになるのをやっとのことで堪え、吐きながら高浜の首にしがみつく。息を吐く度に進入してくる熱さにレイは声にならない呻きを漏らした。高浜が動き出すとしばらくは異物感で眉根を寄せて耐えたがそのうちそれが快感に変わってくる。高浜に与えられる苦痛ならそれさえも喜びに変わる。濡れた肌が擦れる度にレイは喘ぎを漏らした。額や頬に汗で張り付いた髪を指で落とされ何度も口付けられる。激しさを増す高浜の背に必死にしがみついてレイは肩を噛んだ。
「……いいか?」
意味はわかっていたがレイは答えられず逡巡する。薄く開いた瞼の先に少し呼吸を乱している高浜の顔が見えた。レイは小さく何度も頷く。もう構わない。それは投げやりな気持ちではなくて最後の覚悟。高浜との決別を意味する明確な意思だった。
身体を押し上げられレイは喘いだ。激しく揺さぶられると軽い眩暈が起きる。ふと意識が遠のきそうになった瞬間高浜の動きが止まる。奥まで突かれてレイは喉を逸らした。高浜の熱を身体の中に受け止める。涙が流れてレイは身体を強張らせる。何度か引きつるような高浜の動きにつられてレイの身体も痙攣した。喉に高浜の苦しげな吐息がぶつかってくる。レイはその髪に両手を差し入れ何度も撫でた。愛おしいとはこんな気持ちのことをいうのだろうか。わからないがレイは何度も繰り返し高浜の汗ばんだ髪を撫でた。頭を上げると視線が絡む。ふいに二人は恥ずかしそうに笑っていた。それがおかしくてまた笑う。額を押しつけてくる高浜にしがみつく。こんなふうに笑う高浜を何度も見たい。けれどそれは許されないこと。わかっているから余計愛しさが募る。顔を上げた高浜の指がレイの頬に触れた。
「こんなふうに、笑うんだな……。おまえのいろんな笑い顔が、もっと見たいよ……」
レイは瞼を伏せた。
「辛かっただろう?」
「…………?」
「余裕がなかった。いつもはこんなじゃ……」
レイは唇を緩ませた。計算された遊びの延長のように抱かれるよりよほど嬉しい。そう言いたかったが言えなかった。声が出てもそれは言えなかった。
「もう一度、いいか……?」
遠慮がちな高浜にレイは頷いた。かなり体力を失って辛かったがそれでもこれが最初で最後だ。高浜をもっと感じたかった。死ぬその瞬間まで忘れられないほどに自分に高浜を刻みつけておきたかった。
目を閉じて高浜を抱き締めるとあの香水の香りがした。この香りが消えるまでに自分も消えるのだと。レイは遠い意識の中で考えていた。
高浜も随分疲れていたのだろう。それと知らずにレイが渡した睡眠薬入りのミネラルウォーターを飲み干して今はぐっすりと眠り込んでいる。近くに座り込んで髪を、頬を、瞼を、鼻筋をゆっくりと指で辿る。唇に触れるとなぜか涙が流れた。覗き込んだ高浜の横顔にその涙がいくつも落ちた。もっと見つめていたいのに。涙でぼやけて高浜の優しい寝顔が見えなくなる。嗚咽が込み上げてきてレイは泣いた。子供のように泣きじゃくる。そして思わず言葉にしていた。
「……さよなら」
──さよなら。
レイは目を見開いた。その淋しい響きが耳に届く。声が、こんな言葉のために戻るなんて。しかしそれが初めから決められていたことなのだと改めて思う。会ってはいけない人だった。あの時。忘れればよかったのだ。だが忘れられなかった。ずっとずっと、ただ多分、自分は高浜に一目だけでいい、会いたかったのだ。強い想いは時に届くことがある。だがこんなふうな結末まで予測はしていなかった。なぜこんなふうになってしまったのか。どうして自分は高浜を愛してしまったのか。
レイは泣きながら安らかに眠っている高浜の耳元で囁いた。
「……忘れないで。決して、忘れないで。僕が、死ぬ、その瞬間まで、あなたを想い続けるように。決して、あなたも、僕を忘れないで。あなたが死ぬ、その瞬間まで。お願い……お願い……」
祈るような想いでレイは呟き続けた。届かないと思っていても。それでも溢れる想いを留めることがいつまでも出来なかった。
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