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第11話
シャワーを浴びてリビングに戻るとレイはもう起きていた。乱れた病院の寝巻きのままでソファに座りミネラルウォーターのボトルを片手にぼんやりと外を見ていた。高浜はひやりとする。目を離さないようにしないとまたレイは必ず何かをすると思っていたからだ。
レイは高浜の足音に気付いてちらりとこちらを見たが、またすぐに窓のほうに目を移す。時々ボトルに口をつけて水を飲んでいた。
「おはよう、……レイ」
レイは返事をせず雲ひとつない青空を見つめていた。きっと外は寒いだろう。どうしてここに自分がいるのかよくわからずレイは昨日のことを反芻する。真優子に高浜が好きなのだろうと言われたことは覚えている。死ねばいいと高浜に言った。けれど死ぬのは自分ではないのか、そう思ったことも覚えている。しかしそれ以降のことは何となくぼんやりとしていてよく思い出せない。多分かなりの醜態を晒したに違いない。高浜の気の遣いようが違う。張りつめた雰囲気が漂っていてレイはいたたまれなかった。
「そうか、着替えが……」
高浜は寝室へと消えた。着替え。レイはふと自分の姿をまじまじと見つめた。この変な寝巻きはなんだ。昔、暴行を受けて入院した時着たものと似たような。高浜がこんな寝巻きを持っているとは考えにくい。それでは自分は病院に運ばれてその後ここに来たのだろうか。レイは尋ねようとして立ち上がり振り返った。ちょうど着替えを手にした高浜と視線が合う。何と言っていいかわからずレイはまた背を向けてソファに座り込んだ。高浜の目をまともに見られない。何だろう、この胸の鼓動は。高浜が回り込んできて、レイの手元にジーンズと高浜のものと思われるセーターを置いた。
「セーターは大きいと思うけど、君のは倒れた時に汚れたようで……。真優子さんに頼んで病院の帰りに着替えをもらってこようか。しばらくここにいるんだったら、必要だろう? それとも新しく買っても……」
──……倒れた? ……しばらくここにいる?
レイはわけがわからず、かがみ込んだ高浜を見上げた。その微妙な表情を読み取って高浜も驚いたような顔になる。
「……覚えていないのか?」
レイは必死に思い出そうとするが靄がかかったようにすっきりとせず、ただ首を振る。ゆっくりと時間を掛ければ思い出せるのかもしれないが、今はっきりさせなくては、このままでは勝手に話が進んでしまう。
「…………あ」
何だ? 今度は? レイは自分の喉に手を当てる。様子が変だ。何かものが詰まったように声が出て来ない。
「…………う」
「レイ」
高浜が隣に座りレイの肩を片手で抱こうとする。レイが慌てて後ろに飛び退き、それを拒否する。高浜は困惑した表情でレイを見つめている。声が出ない。何としても出ない。なぜ。どうして急に。レイは全身に力を込めて声を出そうとしたがやはり呻き声しか出て来ない。両手で喉を絞めつけるのを見かねて高浜がそれを止めた。
「レイ、落ち着いて」
落ち着いてなどいられない。どうしてこんなことに。レイは思わず高浜を見上げた。理由が知りたかった。
「何も覚えていないのか」
レイは苦しくなって目を閉じて大きく呼吸を繰り返した。高浜はそれが終わるのを待って重い口を開いた。
「昨日、君は真優子さんの前で飛び降りようとしたそうだね。それで、気を失って、救急車で運ばれた病院で、……また飛び降りようとして、気がついた時には、声を失っていた。真優子さんに任せるわけにもいかず、俺が君を預かることにした。……昨日の時点では、君はそれを了承したんだが」
そんなことになっていたとは。レイは抑えられた両手を高浜から離すと困って俯いてしまう。確かに真優子のそばにはいられない。どうしていいのかわからないまま一緒に暮らしていたのだから。だからといって高浜のところにくることを了承していたとは。レイは自分が情けなくて嫌になった。しかも声まで失ったとは。思い出したくない過去がフラッシュバックする。初めて声を失ったあの時。レイは頭を振って髪を両手で握り締めた。
「レイ、……落ち着けという方が無理かもしれないが。……頼むから、俺を頼ってくれ。俺は……」
レイは瞬間的に高浜を見上げた。死なれたら後味が悪いのだろう。ただの自己満足だろう。レイを救う振りをして、本当は自分を救いたいのだろう。救われたいのだろう。誰がそんなことをさせるものか。レイは挑戦的に高浜を見つめる。だが高浜はそんなレイの視線を真っ向から受けた。
「昨日も、君はそんな目をしたね。……いや、昨日より、言いたいことが明確に伝わってくるよ。……そういう意味じゃない。ただ、俺は、……」
ただ? レイは次の言葉を待つ。
「……わからない。この気持ちの意味がわからない。だが、君を見ていたい。君の声が聞きたい。君の笑顔を見ることができたら……」
レイは立ち上がり高浜の前を通り過ぎようとした。だが手首を強く掴まれて動けなくなる。乱暴に腕を振るが高浜は放すつもりがないようだった。
「……とにかく、病院へ行こう。……君は、そのことにも同意した」
そんなことまで。嘘だと思ったが声が出なかった。手を放してもらえないのを知ったレイは仕方なくソファに座り、高浜の手にしていた着替えに手を伸ばす。やっと高浜が戒めを解く。
「俺もすぐに着替える。食事は外でしよう。それから病院へ」
レイは渋々頷く。病院へ行っても高浜の満足するような結果が出ないことはわかっていたが、どうにかしてまでそれを伝えようとは思わなかった。
レイはため息をつき、またガラスの向こうを見つめる。冴え冴えとした青さが目に染みてその眩しさに顔を下ろした。
「声が出ない。……他には」
高浜より一目で若いとわかる男性医師はとても優しい目でレイを見つめてきた。受け止めることができずレイは俯く。何も言いたくない。言ってもどうにもならない。それは自分が一番よくわかっている。高浜が頼りにしている医師のようなので「できる」医師なのだろうとは思ったけれど。
医師は横にいる高浜をちらりと見るとにっこりと笑った。
「高浜さんの弟さん?」
「いや、違う……」
「……そうなの? 弟さんをやっと見つけられたのかと」
レイは顔を上げる。この医師は高浜の友人なのか? そんなことまで知っているとは。その視線に気付いた医師はまた朗らかに笑った。
「僕の方が若く見えるだろうけど、僕と高浜さんは大学の同期だよ」
同期。それでは高浜は医師を目指していたというのか? 驚いたがレイは表情には出さなかった。それにしても何と若く見える医師なのだろう。人は見掛けによらないとレイは不思議に思った。
「高浜さんがいると、何だか気が散ってしまっているようだけど」
「……ああ、外に出る」
レイはほっとして背後でドアが閉まる音を聞いていた。だが目の前の医師にも高浜と共通する何かを感じてレイは萎縮した。ネームプレートに五嶋と書かれているのを目の端に留める。
「……だいたいのことは聞いたけど……。声が出なくなったのは、これが初めてじゃないよね?」
レイはさすが高浜の信頼している医師だと納得した。隠し事は無駄だと思い頷く。これなら高浜の友人でも守秘義務を貫くだろうと安心したからだ。
「……そう。気長に待てるよね?」
素直に頷く。五嶋は微笑んだ。そう。それしか方法はない。薬も無駄だ。
「……高浜さんのことを聞きたそうだけど」
レイは顔を上げた。聞きたいこと。それは沢山ある。だが聞いてもやはり五嶋は話してくれないような気もする。考えあぐねていると五嶋は小声になった。
「……いいよ。その代わり、高浜に黙っていてくれれば」
レイは頷く。五嶋に差し出されたメモ用紙にレイは疑問に思っていたことを書いてみる。なぜ高浜は時々取り乱して薬を乱用してしまうのか。死に至るかもしれない危険を承知の上でなぜあんな薬を出すのか。レイは、それは友人にすることではないと思った。それを見た五嶋が唇の端を上げた。
「……君、彼の、何なの?」
レイはふと五嶋が高浜の友人だということを再認識する。高浜と同じ匂いがすると感じたのはこういうことかと思う。柔和な微笑みの裏に何かを隠している。レイは五嶋を少し睨んだ。
「あ、ああ、ごめん。いや、……実は、高浜がこんなふうに他人に接するのを見たことがないもんでね。大学時代から、彼のことは知ってるけど、どんなに深い仲の女がいても、ここまではしなかったな、と思って」
慌てている五嶋をレイは警戒したまま見つめた。
「彼は僕の出した薬を貯めて、時々、病院に運ばれてるみたいだけど。彼には必要最低限、決められた期間のものしか渡してない。それと、発作止めのようなもの。大したことないものだし、彼も知ってるよ。まぁ、時々少し多めには渡すけど。彼は、ただ、自分を痛めつけるための何かが必要なの。かえって、彼を死なせないためにも、それは必要なの。彼にとって、それが何とか生きていくための方法なの。わかる? そういうの」
レイはわけがわからず首を傾げた。
「わからないよね。でも、君にも、高浜と同じものを感じるんだけど。実際、君も、今、死なないために、こうして声を失ってるでしょう。失ったんじゃないの。自分で、声を出さないようにしてしまったの」
五嶋の薄い唇を見つめながらレイは必死にその言葉を反芻する。
「自分を守るために、自分でしなきゃならないこと。高浜も、君も、やり方は違うけど、同じことをしてるの」
「…………っ」
五嶋はレイから目を逸らすと手元のカルテを眺めた。
「……名前も、年も、本当かわからない。君は、誰?」
レイは立ち上がり部屋を出ようとする。ドアノブに手を掛けようとすると五嶋の声が追ってきた。
「君は、高浜のことが好きなの?」
身体が固まる。真優子の言葉が脳裏をよぎる。なぜ。レイにもわからないレイの心が他人にわかるというのだ。レイは焦れてドアを両手で思いきり叩いた。
「……レイ!」
ドアの向こうから高浜の声が聞こえた。だがレイはドアに背を向け体重を掛け高浜が入れないようにした。五嶋と視線が合う。五嶋が真剣な視線で立ち上がった。
「事情はよくわからないけど、高浜を痛めつけるつもりなら、目的はもうとっくに果たしているでしょう」
何を言っているのかわからずレイはただ呆然と五嶋を見つめた。
「……高浜の心を奪った。……これ以上は、勘弁してやって」
「…………っ」
レイはドアを思いきり開ける。高浜とぶつかりそうになったのを避けて外へと飛び出していく。
「レイ!」
高浜はレイを追ってクリニックを飛び出す。エレベーターの扉が閉ざされそうになるのをこじ開けて高浜が半身を滑らせる。レイは狂ったように一階のボタンを両手で押していた。
「レイ!」
「…………っ」
後ろから両手を掴まれてレイは暴れた。エレベーターが揺れる。
わからない。自分の気持ちがわからない。その上五嶋に不可解なことを言われてレイはおかしくなりそうだった。声が出ないのがもどかしい。叫びたい。決して自分は高浜に好意など持っていない。憎んでいる。殺したいほど憎んでいる。それだけを心の支えに生きてきたのに。今更変えることなどできやしない。
「レイ! 落ち着け、どうした!」
「…………っ」
「五嶋と何があった!」
レイは両手を下げて大きく息を吐く。落ち着け。落ち着くんだ。もうすぐエレベーターが一階につく。誰かに見られたくない。こんな姿を見られたくない。高浜がゆっくりと手を放す。レイはセーターの端を強く掴んだ。その時ふわりと高浜の香水の香りがした。慣れてほっとする自分がいる。そしてそれを疎ましく思う自分がいる。レイは感情の激しい揺れを何とか隠していつもの無表情に戻る。軽やかな音が響いてドアが開く。スーツ姿の人々が行きかう。何もかもが遠い場所のことのように思える。現実感がない。どうして。どうしてこんなにも、こんなにも人がいる中で高浜に会ってしまったのか。どうして高浜でなくてはならなかったのか。何の意味があるのか。自分はいったいどうすればいいのか。ひどい脱力感と疲労がレイの足元を震わせる。
「……大丈夫か、レイ」
レイは思わず高浜の腕にしがみつく。眩暈がする。目を閉じてしばらく立ち尽くす。こうして結局縋り付くのは高浜の腕。矛盾している。自分はいったいどうなってしまったのか。レイは何とか顔を上げた。高浜の真剣な表情を見てつい笑ってしまった。
「……レイ?」
そうだ。高浜は男だ。自分は何を考えているのだろうとおかしくなる。自分も男で。確かに男性と関係を持ったことは何度もあった。だがそれは誘われたり、強要されたりしただけのことで。決して自分は同性愛者ではない。好きだの愛しているだのバカげているとレイは思った。真優子も五嶋も勘違いをしている。そう、ただ高浜を前にして正気でいられない時があって、その時妙な気持ちになるだけで。レイはとにかくそう結論付けた。ここまできてしまった以上もう何を考えても無駄だ。
自分のするべきことは終わった。高浜はすでに自滅していた。もうそれでいいではないか。自殺未遂を何度もするほどに苦しんでそれを隠して必死に生きていて。
レイはふらふらと歩き出す。高浜が肩を抱いてきたがもう振り払おうとはしなかった。
──……いや。自分のするべきことは、何もない。何もかもが、始まる前に終わっていた。ただ、それだけのこと。
高浜に押されるままにレイは明るい日差しの中へと歩き出す。雑踏の喧騒も耳に入らず、ただレイは放心状態で高浜の指示に無気力に従った。
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