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第10話
部屋の中に危ないものはない。窓も二重ロックになっているからもたついている間に気がつくだろうと思い高浜はグラスを片手にノートパソコンの画面を見つめていた。残っている仕事を済ませようとしたがどうも背後が気になり立ち上がる。そっと中を覗くとこちらに顔を半分覗かせているレイの顔が見えた。入っても気付かない。眠ってしまったようだった。膝を突いてレイの美しい寝顔を見つめる。筋の通った鼻が半分隠れて目を閉じている様はどこか幼くも見える。高浜は胸が温かくなるのを感じる。亜由美に感じていた気持ちとはまた違う、何と言えばいいのかわからない感情が胸を横切り高浜はつい指でレイのこめかみにぎこちなく触れた。もし弟が生きていたら。レイの言葉を信じるならば弟も同じ十七歳になっている。こうして出会ったことにも何か意味があるのだろうか。もう一度弟を探せということだろうか。だが弟は自分を覚えているだろうか。一回りも違う、幼い時に別れた弟。兄の存在も知らないかもしれない。とにかく今はこうしてそばにいるレイを大切にしようと思った。それは亜由美に対する償いでもあり何より高浜自身が望んでいることだった。
眠りが途切れて目が覚めると喉が渇いて仕方がなくレイはベッドから下りるとリビングへのドアを開いた。灯りは点いたまま。パソコンの画面もついたまま。また飲んでいたのか。グラスにウイスキーが残ったまま。高浜はどこにいるのか? と思いソファを覗き込んでみるとそこに横になって眠っているのを見つけた。レイも疲れていたが高浜はもっと疲れているのだろう。こんなところで眠り込んでしまうほどに。精神を安定させるために薬を飲みながら仕事をこなして夜は浴びるほど酒を飲んで一人で眠る。何も考えたくないのだろう。自分と同じように。過去に縛りつけられそうになる前に逃げようともがく。レイにもわかる気がした。ただその方法が高浜は薬を飲むことで。レイは表情に感情を乗せないことで。似ているのかもしれない。もしかして高浜もレイと同じ想いを持っているのかもしれない。そう思うとレイはもしかすると高浜を許せるかもしれないとそんなことを考えた。高浜のそばに座り顔を寄せてみる。規則正しい寝息が聞こえる。睫毛が長い。レイの指が、レイの想いに比例するように高浜の唇へと触れる。何度か触れ合った唇。薄くて冷たく見られてしまいそうだが優しい言葉が零れることも知っている。触れたい。唇で触れたい。自然に唇を寄せようとすると高浜の瞼がいきなり開いた。驚いて二人は離れる。
「……レイ」
「…………」
「……どうした」
レイは立ち上がるとキッチンへと向かった。勝手にグラスを取り上げると蛇口を捻る。
「ミネラルウォーターが冷蔵庫に入ってる。それを飲めば……」
無視して一気に水道水を飲むとグラスを置いた。自分は何をしようとしていたのか。頬が赤らむのを感じてレイは両手を握り締めた。
「……喉が渇いたのか。じゃ、ボトルを寝室に……」
冷蔵庫に近付いてくる高浜の前に立つ。道を塞がれて高浜はどうした? と声を掛けてきた。レイは思わず高浜の腕を掴んでぐいぐいと引っ張り寝室へと連れて行く。高浜は逆らわずにレイに付いてきた。
ベッドの前に並んで立つとレイは手を離した。
「……レイ?」
高浜はどうするだろうか。レイは高浜がどういう反応をするのか見たかった。レイは俯いたままベッドを見下ろしていた。高浜はしばらく無言だったが両手をそっとレイに伸ばしてきた。レイは密かに息を呑む。すると高浜の手がレイの肩に掛かりそっと押されてベッドに座らされた。それから? レイは今度は足元を見つめる。高浜が膝を突いて視界に入ってきた。思わず目を閉じてしまいそうになったが何事もないようにただレイは視線を静かに高浜に移した。
「……レイ」
「…………」
胸の鼓動が激しくなる。聞こえてしまわないだろうか。以前車の中で胸に手を当てられたことを思い出し、レイは更に無表情を装った。
「レイ、横になって」
高浜に言われた通りレイは布団の中に足を滑らせる。高浜は息を吐くと困ったように笑った。
「……ゆっくり休んで。今、水を……」
立ち上がろうとした高浜の腕を引く。バランスを崩して高浜はベッドへと腰を突いた。間近に視線を合わせると、やはりレイは弱い。それでもしっかりと高浜の顔を見据える。腕に手を絡め手首へと指を滑らす。レイは自分で何をしているのだと思いパニックになる。高浜を誘っているようではないか。いや誘っているのだ。しかしやめようと思っても手が言うことを聞かない。そのうち高浜の長い指に自分の指を絡めていきレイは目を閉じていた。不規則な呼吸が一層誘っているように見えるだろう。やめろ。これ以上進んだらもう後が無くなる。やめないと……。そう思った瞬間、唇が塞がれていた。突き飛ばそうとして上げた手が意思に反して高浜の首へと絡みつく。温かな舌が何度もレイの唇をなぞり湿らせていく。高浜の両手がレイの小さな顔を包んだ。もどかしげに二人は唇を何度も重ね合わせる。そのうち舌が絡んでレイの身体が小さく跳ねる。あの時全身が粟立ったが今回は違う。全身に甘い痺れが走った。湿った音が響いてレイは力を込めて高浜の首に手を絡めた。髪に指を差し入れ自分へと引き寄せる。身体中が高浜を感じている。ただ唇を合わせているだけなのに。激しく求められることがこんなにも甘美だとはレイは知らなかった。今まで誰と口付けてもこんなふうになることはなかった。高浜だから? 自分はいったい高浜に何を求めている? 高浜に感じているこの気持ちはいったい? レイは混乱し始めて息を乱した。しなる背を支えるように高浜はしっかりと両手を伸ばした。どのくらいそうしていただろう。レイはもうどうでもいいと思いこのまま何もかも高浜に任せてしまおうと自分の寝巻きの紐を解こうとした。すると高浜の手が伸びてきてそれを止めた。唇が離れてレイは潤んだ目で高浜を見上げた。高浜は冷静だった。急に意識がはっきりとする。
「……レイ。自分を見失うな」
気持ちを見透かされてレイは俯いた。弾んだ呼吸を沈めようと胸に手を当てる。
「……俺を、殺したいほど、憎んでいるんじゃなかったのか。そんなヤツに抱かれてどうする。……君らしくない」
高浜の手が優しくレイの髪を撫でた。そんなことをするからと叫びたくなったが声は出てこなかった。ゆっくりと両手が伸びてきてレイの身体を優しく抱き締める。目を閉じてレイは高浜の首筋に顔を埋めた。これが自分を殺すかもしれない相手にすることだろうか。死ぬほど憎んでいる相手にすることだろうか。互いに間違っている。答えが出せず戸惑っている。自分の気持ちがわからずにただ、今は目の前の存在に触れるしか術がない。レイの呼吸が乱れた。
「……それとも、俺を試したか?」
身体を放して高浜の頬を叩こうとしたがやんわりとその腕を掴まれてしまった。高浜は微笑んですぐに腕を放した。
「そんな元気があるなら、大丈夫だな。……あとはゆっくり休んで。話せるようになるように、明日は病院へ行こう」
レイは首を振った。意味がないことを知っているから。高浜は困ったようにレイを横にさせながら布団を掛けた。
「……俺は、君の声が聞きたい」
レイは首を振る。そして高浜に背を向けると目を閉じた。優しく髪を撫でられてレイは更に強く瞼を閉じた。
「……頼むから」
レイはその手を引いた。ぐいぐいと引きながら身体を移動させていく。
「……一緒に? ……大丈夫なのか」
レイは背を向けたまま頷いた。
「……じゃ、今、着替えるから」
レイはまた頷いて手を放し布団に顔を埋めた。勝手にひとつしかない枕を引き寄せて身体を丸める。枕からも高浜の香水の香りがする。おかしくなりそうで、それでいて安心できるような気にもなる。
高浜にもう声を聞かせることはないだろうとレイは思っていた。実際レイが失った声を戻すために一年の時を要した。気がついた時には声を失っていたのだ。驚いたが案外冷静な自分がいた。別に話せなくても構わないと思っていた。話すことなど何もない。その時から感情らしいものもどんどんと欠落していった。話せない。表情もない。
声が戻った後も無口で無表情なまま。レイを利用する人間が多くなりレイはそれに逆らわなかった。黙って従っていれば煩わされずに生きられる。そんなふうに生きてきてまた声を失った。もううんざりだ。死のうとは思わない。だが誰も自分を知らないところに行きたい。誰にも縛られたくない。そうするとやはり死ぬしかないのか? 堂々巡りの思考を中断するように背中と布団の間に空気がはらんだ。ベッドがきしんで高浜の身体が近付いてくる。急に腰と肩に両手が絡んできてぐっとレイは高浜の胸に背中から抱き込まれた。驚いて振り返ろうとすると首筋に高浜の吐息が触れた。
「……赤ん坊のようだな」
「…………?」
「……そんなに身体を丸めて眠るなんて。……癖なのか?」
そう言われてみるとそうかもしれない。自覚しているわけではない。
「それとも、……究極の拒絶か?」
「…………」
深読みしすぎだ。その言葉の意味もわからない。レイはもう聞きたくないとばかりに大きなため息をついた。高浜の片手がレイが楽なように首から入り込み肩へと掛かる。もう片方の手も負担にならないように腰へと当てるだけに留める。だが密着しているのには変わらない。いつの間にか首筋に唇が当てられていてレイは少し身体を固くした。
だが耳を済ませると高浜はもう眠っているようだった。呆れた。けれど規則正しい吐息が温かくてレイは何となく離れられなかった。逆にもう少し唇に首筋をあててみる。悪くない。
肩に掛かる腕にそっと手を絡ませてレイは目を閉じた。いつかそう遠くはない未来自分はどうしているのだろうと思いを馳せる。高浜のいない場所で、ただ一人、いったい何を考えるのだろう。レイには何も思い当たることがなくただ静かに息を吐いた。
少し暖房を強くしすぎただろうか。うっすらと汗を感じて高浜は目を開いた。目の前にレイの色素の薄い柔らかな髪がある。レイは昨夜の嫌そうな表情とは裏腹に高浜の腕を枕にして両手でしがみつくようにして眠っていた。ぴったりと背を高浜の身体に沿うようにしているレイの後ろ姿に込み上げるものがあって唇を近付けようとしたが高浜は思い留まった。
昨夜レイが高浜の唇に自分の首筋を押しつけてきたことは知っていたし腕に手を絡めたのも知っていた。レイの気持ちがわからない。何を考えているのかも。ただ自分だったら殺したいほど憎んでいる相手に昨夜のようなことは間違ってもしないだろうしこんなふうに無意識にでも触れたりはしない。レイが高浜に抱いている気持ちはとても複雑なものなのかもしれない。自分が時々レイに感じるよくわけのわからない感情と同じように。
高浜は額の汗を拭うとレイが起きないようにゆっくりそっと腕を引き抜いていく。レイは暑くないのだろうか。覗き込んだ横顔は相変わらず青ざめたままで汗ひとつ浮かんでいない。
とりあえずレイをゆっくりと眠らせよう。その間にシャワーを浴びて病院へ行く支度をしなければと高浜は思った。レイが嫌がろうと何だろうと病院へ連れていく。レイは声が出ないとわかった瞬間激しいパニック状態に陥ったがその後、何でもないことのように振舞っている。そのあまりの落差に高浜は少し首を傾げたがとにかく声が出なくなるまでのぎりぎりの精神状態だということだけはわかる。自殺未遂をしたことといえ、とにかくこれから先どういう心積もりでレイに接すればいいのかも含め医師に相談するつもりだった。レイを精神病院に閉じ込めるつもりはさらさらない。昨夜むりやり予約を入れてもらっている。それまでに何としてもレイを連れていく。高浜はぐっすりと眠り込んでいるレイを見下ろしながら小さなため息をついた。
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