9 / 15

第9話

 レイから目を離すことができず高浜は病室の中で携帯やパソコンを使って看護士に注意された。まず自分の通っている精神科の医師に連絡を取り、むりやり予約を捻じ込んだ。そして亜由美の実家にどうやって連絡を入れるか、それとも入れないほうがいいのかしばらく悩んだ。亜由美と一緒に挨拶に行ったことがあるだけに、今、その弟が高浜のそばにいるなどと二人の両親に伝えづらかった。そもそも亜由美が亡くなった後、レイはどうやって高浜を探しあてたのだろう。確かに亜由美は弟と仲がよかったらしく、高浜のことをレイに話していた可能性は十分にある。だが挨拶の際、弟はいなかった。亜由美の死後、レイは高校を辞め家出している可能性が高い。勝手に居場所を伝えるわけにもいかないだろう。高浜は悩む。そばにいてやりたい。だがレイはそれを望まないだろうとわかっていた。誰が殺してやりたいほど憎んでいる人間の世話を受けたいと思うだろう。だからといって病院で一時的に生命の安全を保証されたとしてその後はいったいどうなるというのだろう。病院を出てレイがまた同じことをする可能性は高いように思えた。自分がいけないと思いつつも何度か発作的に薬を大量服用するようにその「瞬間」は不意をついてやってくる。  レイの変わらない寝顔を見つめ高浜は眼鏡を外してパソコンの上に置いた。  レイを死なせたくない。もし自分に復讐することで気が済むのならそれでいいと思っていたけれど。もし自分がレイの立場だったらと高浜は思った。復讐が終わった後、何も残りはしないだろうと思った。レイを見ていてそう思う。ぷつりと糸が切れたようにいとも簡単に生命を投げ出すだろう。もう何の意味もないとばかりに。そんなことは絶対にさせたくなかった。どうしたらいい。堂々巡りの思考を遮るようにレイの肩が少し揺れた。 「……レイ?」 「……う……」  眉を顰めて苦しげに息を吐くと瞼がゆっくりと開く。しばらくするとかくんと顔がこちらを向いた。 「……レイ」  レイは何か言おうとして唇を開いた。それから目を見開いて喉に手を当てる。 「……レイ?」 「……う……」 「どうした?」  レイが思わず片手を高浜に伸ばす。その手を握り返すと思いも掛けない力でしがみついてきた。 「……あ……」 「どうかしたのか?」  レイの両手がぐいぐいと高浜の腕を引く。その痛みに耐えながら高浜はそばに寄りレイの額を空いている手で撫でた。見開かれた目が充血してくる。 「……う……」  爪が食い込む。必死に何か言おうとしている。何かがおかしい。高浜は思わず声を荒げた。 「どうした? 苦しいのか?」 「……う……」  呼吸が苦しいのか瞼を強く閉じ、レイは身体を跳ねさせ起き上がり、高浜の腕にしがみついた。 「レイ!」 「……あ……!」  身体が震えている。全身に力を込めて何かを言おうとしている。嗚咽のような低い声が響いた。 「レイ、……おまえ……!」  高浜はしがみついてくるレイの身体をそれ以上の強さで抱き締めた。 「……まさか……声が……!」 「声が出ないって……どういうこと……?」  病室のドアを開けたまま高浜はレイを見張りながら薄暗い廊下で声をひそめた。 「……精神的なものだろうと……とにかくここじゃ埒があかない。俺の通ってる精神科に連れて行く」 「レイは……レイは今、どうしてるの」 「……起きてる。眠るように言っているんだが……」 「……今から行くわ」 「もう遅い。今日はゆっくり休んでくれ。俺が付いているから」  真優子はしばらく黙っていたが落ち着いた声で答えた。 「……そうね、レイはあなたに任せるって……そう言ったのは私だもの」 「……できる限りのことはしたい。……どうしても君の力が必要になったら、悪いけど、連絡させてもらうよ」 「ええ、わかってる。……レイを、お願いします」 「わかった」  通話を切ると真優子はカウンターに携帯を置いた。レイに以前に伝えた言葉を思い出す。高浜と亜由美の問題は二人にしかわからないのだと。レイが高浜を探し出した時に、高浜は答えを出さなければならなくなったのだ。これを越えなければ高浜も一生薬で自分をごまかしながら生きていかなくてはならない。高浜にそんな生き方をしてほしくはなかった。そしてレイ。レイは高浜に、高浜もレイに魅かれている。その答えも出さなくてはならないのだ。レイも自分の葛藤と向き合って答えを出さなくては、これから先、高浜と同じようなことになる。レイを愛している。だからこそ自分自身を見失わないでほしい。ここは二人に任せるしかない。助けを求められればいくらでも手を貸そう。しかし答えを出せるのは二人だけ。哀しいけれどそれが真優子の現実なのだ。  どんなに苦しくてもどんなに辛くても。ぶつかり合えば何かしらの答えが出るはずだ。それを見守ろうと真優子は心に決めた。 「レイ、俺の部屋に来ないか」  深夜二時を過ぎてもレイは身体を起こしたまま、ただ目の前の壁をぼんやりと見つめていた。 「……ここにいても仕方がない。……いたいなら、いてもいいが」  レイは小さく首を振った。 「……うちにきて、ゆっくり休むといい。俺もしばらく会社を休むことにする。俺がそばにいることを君は嫌うが、……死なれるのは、困る」  レイが少し首を傾げて高浜を見た。ちらりと軽蔑の色が浮かぶ。 「……いや……そういう意味じゃない……。後味が悪いとか……そうじゃなくて」  高浜はレイを見つめ返した。 「……俺は、君に死んでほしくない。生きていてほしい」  レイの唇の端が少し上がる。つまらなそうな微笑だった。 「……なぜ、急に死のうとしたんだ」  レイはまた視線を壁に戻しこれ以上何を言っても反応する様子はなかった。ベッドの端に腰を掛けて高浜はレイの頬に手を伸ばそうとしたがやめる。何もしてほしくないだろう。本当はそばにいられるのも苦痛だろう。 「……真優子さんのところへは帰せない。……わかるね?」  しばらくするとレイは小さく頷いた。 「……それじゃ、支度するか。早いほうがいいだろう」  レイはまた頷くとベッドからそろそろと降りた。手を貸そうとしたがその手も途中で止まる。触れられない。またレイがパニックになるのではないかと思うと。服を出したがレイは着替える気になれないのか、そんな力が残っていないのかなかなか手を出そうとしない。高浜は自分のコートをレイに渡した。 「車までこれを着ていくといい」  黒いカシミアのコートを手にしてレイは頷いた。手早く回りのものをまとめると高浜はレイを先に歩かせた。目が離せないので一緒にナースセンターに行き手続きをしてもらい、その後救急の入り口で精算を済ませる。駐車場に出るとレイはふと立ち止まり曇って星も見えない空を見上げた。白い息がふわふわと流れる。しばらくそうしていたが高浜を振り返ったので車の位置を教える。すると高浜の携帯が鳴った。 「……俺だ」  仕事の相手なのだろうか。レイはぼんやりとそれでもやっと少しはっきりとしてきた意識の隅でそう思った。失敗した。死ぬことも今はできないということか。レイは重い気分で高浜の車の助手席に乗った。高浜は話しながら荷物を後部座席に放り込むと運転席に座る。ハンドルに腕を掛けて窓の外を見ている。また。眼鏡をするほど目が悪いようには見えないのに。レイは何とはなしに高浜の声を聞いていた。 「……俺がいなくてもおまえならできるだろう。とにかく俺はどうしても今動けない。秘書に詳しいことは聞いて。何かあったらいつでも連絡してこい」 「…………?」 「どうせ、社長なんて名ばかりだ。俺一人いないくらいで回らない会社だったら潰れてしまえばいい」  何と乱暴な。しかも高浜は社長だったのか。何の仕事をしているのかはわからなかったが高浜が相当なやり手だということはわかった。 「……とにかく、頼んだぞ。いいな」  高浜は携帯をポケットにしまい込んだ。レイの視線を感じたのか振り向いた。 「……どうした?」  声が急に優しくなる。レイは俯いた。会社での高浜はあんなふうな感情のない声でいつも振舞っているのだろうか。今優しくされたくなどなかった。優しくされたら……。 「……今、ヒーターを入れるから。辛かったら、目を閉じていればいい」  高浜は適度な温度に設定してヒーターを入れると車をゆっくりと発進させた。レイはふと高浜のコートからあの大好きな香水の香りがするのを感じた。決して派手ではなく品のある深みのある香り……。  今そばに高浜がいる。絶望し死のうとしたはずなのに。それでも最後にこうしてそばにいてくれるのが高浜だということにレイはなぜか苦しいほどの嬉しさを感じていた。高浜と出会ってしまった。どうしたら自分は彼から離れることができるのか。死ぬこともできなかった今レイにはもうその方法を見つけることができないような気がした。  車を止めてレイを覗き込むとレイは窓に頭をつけたまま目を閉じていた。眠っているのか。ふと高浜はレイが両手でしっかりと自分のコートを握り締めているのを見た。そんなに寒いのだろうか。とにかく早く部屋に連れて行きゆっくりと休ませてやりたいと思った。肩に手を置こうとしたがそれも躊躇われて高浜は声を掛けた。 「……レイ」  疲れているのだろう。だが部屋まで歩いてもらわないとならない。抱き上げるのは簡単なことだったがレイは嫌がるだろう。 「レイ、起きて」 「…………」  瞼が開く。ぼんやりとした表情で高浜を見る。その瞬間。高浜の胸に込み上げるものがあったが、それは一瞬のことで何を意味するのかもわからず視線を逸らした。 「……歩けるかい?」  レイは微かに頷いた。高浜はロックを外すと後ろから荷物を取り出しレイが外に出るのを見てから施錠した。駐車場のエレベーターに二人は乗り込んだ。 「……ヒーターが弱かったか?」 「…………?」 「いや、コートを握り締めていたから。そんなに寒かったのかと」  レイは微妙な表情ですぐに俯いた。高浜はそれ以上話し掛けてこなかった。  部屋に入るとあまりの寒さにレイは身震いした。コートの下は病院の寝巻きのままだ。高浜に付いていき寝室に入るとすぐに部屋の温度を上げてくれ加湿器も付けてくれた。 「立ってないで、こっちにおいで。早く横になるといい」  レイは複雑な気分でベッドへと腰を下ろす。ここで二度高浜に抱かれそうになった。ここへきたのは間違いだったような気がしてくる。だが今のレイは疲れていて早く休みたかった。他に何も考えたくなかった。気だるげに羽毛布団の中に入り込む。これでも十分温かかったが、高浜はクローゼットの中からもう一枚毛布を取り出しレイの身体に沿って掛けてくれた。 「……これで大丈夫だと思うが、寒かったら言って……」  そこまで言って高浜は口を閉ざした。声が出ないレイのことを忘れていたのだろう。レイは頷くと目を閉じる。高浜の視線を感じたがしばらくすると部屋を出て行く音がした。  レイは目を開け大きく息を吐いた。実は声が出なくなったのはこれが初めてではない。何かの拍子でまた出るだろう。前の時のように。それくらいにしか考えていなかった。それを高浜に言う気にはならないが。  考えなければならないことは沢山あるような気がしたがレイは目を閉じた。とにかく今はゆっくりと休もう。それからでも遅くはない。  高浜の香りのする布団に無意識に顔を埋めレイは身体を丸めて眠りについた。

ともだちにシェアしよう!