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第8話

 真優子と関係を結んで数日レイは何度も部屋を出ていこうと思ったが、それではまるで逃げているようで、ただ自分を責めながら過ごした。真優子はまったく何事もなかったかのようにいつも通りだった。だが逆にそのことがレイを更に落ち込ませた。まだ責められたほうがマシだった。自分勝手だ。自分かわいさに真優子に頼り、そしてそれを後悔している。最低な人間だ。レイは仕事に打ち込んだ。そうすることで少しでも罪悪感から逃れたかった。 「レイ、ボトルを……あら」  真優子がカウンターに置いてあった携帯を取ろうとしたので代わりに取って渡そうとした。一瞬目の隅に高浜の文字が見えた。レイは素知らぬフリで真優子に渡すとボトルを取るため背を向けた。 「……ええ、いいわ、行きます。少し待ってて」  すぐに携帯を閉じると真優子はレイにいつものように笑い掛けた。 「ありがとう。今日はちょっと用ができたから、部屋に帰るのが遅くなるかもしれない。先に帰っててくれる?」 「……はい」  真優子はボトルを持ってボックス席へと向かった。なぜ自分に言わない? レイは急に気が重くなった。二人でいったい何を話すつもりなのだろう。気になってしようがなかった。真優子はボトルを置くとすぐにカシミアのロングコートを片手に店を出て行った。閉まった扉を見つめながらレイはまるで見捨てられた子供のように心細くなるのを感じていた。  眠れない。真優子が帰らない。時計を見るともう三時を過ぎている。今夜はもう帰らないつもりか。レイはもう何度目になるかわからない寝返りを打ち、ため息をつく。  勝手なものだと思う。真優子とは恋人ではない。真優子が何をしようとレイには関係がない。真優子とあんなふうに関係を持ってしまった今、レイはただ罪悪感しかなく何も言うことができなかった。  早く、早く帰ってきてほしい。何度も願い耳を澄ませてドアが開く音を待った。だがいくら願っても真優子が戻ることはなかった。  レイは一睡もできず爪を噛みながらぼんやりとカーテンの隙間から鈍い光が入り込んでくるのを見つめていた。その時だった。ドアの鍵が開く音が重く聞こえた。レイは息を詰めて目を閉じる。しばらくして寝室の扉が開き真優子が自分を見つめているのがわかった。だがすぐに扉は閉められて真優子は音を立てないようにリビングへと移動した。起き上がって今まで何をしていたのか聞きたかった。だが自分にそんな権利はない。なぜそんなに焦っているのか何に怯えているのか、いったいどちらにこんな感情を持っているのかわからずに、レイはいつの間にか緩やかなまどろみの中に落ちていった。 「あら、もっと眠っていていいのよ」  実際に眠りに落ちていたのは三十分くらいだった。身体が重い。はっきりしない意識のままレイはコーヒーを取りに行く。 「私が入れるわよ」 「いいよ」 「……どうかしたの? 顔色がよくないわ」 「……大丈夫」  額に当てようとする真優子の手を反射的に払ってしまっていた。驚いたように見つめる真優子にレイは慌てて謝る。 「ごめんなさい」 「……どうかしたの?」  何といえばよいのか。知らないフリをしているほうがいいのか。それとも聞きたいことをそのまま言えばいいのか。レイは悩んだ末、思いきって尋ねた。 「……どこへ行ってたの」 「どこって……」 「朝まで帰って来ないなんて」  しばらくの間の後、真優子は言った。 「……起きてたの」 「……高浜さんと、一緒にいたんだよね」 「……そうよ」  真優子はソファに座って窓の外へと視線を投げる。こちらから表情は読み取れなかった。 「……何してたの」 「何って……」  バカだ。こんなことを聞いてどうする。けれど聞かずにはいられない自分がいる。真優子の言葉を待つが会話は途切れたまま、ただ気まずい雰囲気だけが流れる。 「……そういうこと……」 「……そういうことって」 「……いつから? 真優子さん、かなり詳しく、あの人のこと知ってたよね。声を聞いただけで、どんな状態か、すぐにわかるほど」 「レイ、やめて」  やめろ。だが止められない。止まらない。何を言いたいのか自分でもわからずにただ気持ちが溢れ出してレイは言い続けた。 「僕だけが、知らなかったってこと? 二人はずっと前から」 「レイ、あなた、高浜さんのこと、好きなのね」  真優子がまっすぐにレイを見つめ返してきた。呼吸が止まりそうなほどの衝撃を受ける。高浜を? どうして? 「……僕は……」  言葉が出てこない。ただ一言否定すればいいだけのことなのに。真優子は冷静だった。感情を抑えた凛とした響きを持ってレイに尋ねた。 「……否定しないのね」 「……僕は……」 「あなたが、感情をあらわにするのは、彼に関する時だけだもの。私を抱いたのも、高浜さんと何かあったからでしょ」  真優子は気付いていた。その上でレイの行き先のない想いを受け止めてくれたのか。真優子はレイを責めなかった。一度も。レイは俯いてただ床の一点を見つめた。 「……真優子さん……」 「何があったのか知りたければ、彼に直接聞けばいいわ。彼ならすべて、正直に話してくれるでしょう。あなたになら」  それだけ言うと真優子は寝室へと消えた。ぐっと両手を握り締めレイは唇を噛み締める。  死ねばいいと高浜に言った。死ねばいいのは誰だ? 自分ではないか。何をしてきたのだろう。まだ何をするつもりなのだろう。  ふらつく足でレイは窓へと向かった。何も考えられなかった。カーテンを開けると鈍い色の空が、それでも眩しく感じられた。鍵を開けガラス戸を開けると裸足のままベランダへと出る。視点が定まらない。冷たい風に頬を打たれても寒さを感じない。もう疲れた。なぜこんなふうになるまで自分は生きてきたのだろう。もう終わらせよう。レイは両手を手摺りへと伸ばした。上半身を外へ乗り出すと背後で悲鳴が聞こえた。 「レイ!」  背中にどんと痛みが走る。そのままコンクリートの床へと崩れ落ちる。真優子は半身に走る痛みを堪えながら起き上がる。うつ伏せに倒れているレイの肩を揺さぶった。 「レイ! レイ!」  レイは意識を失っていた。 「レイの様子は」 「……病気とか、そういうんじゃなくて……」  真優子から連絡をもらった高浜は仕事を早々に切り上げてレイの運ばれた病院へと急いでやってきた。会議中だったこともあり、ただ入院したとそれだけしか聞いていなかった高浜はわけがわからず泣いている真優子の肩を抱いた。部屋の中で会話をするのはやめようと二人は寝ているレイを確認して外へと出た。青白い顔。疲れ切ったその表情に高浜の胸は痛んだ。 「どうして入院なんて」 「……飛び降りようと……」 「え?」 「……飛び降りようとしたの……。ベランダから……」  高浜は真優子の顔を覗き込んだ。 「君は? 怪我はしていないの?」 「大丈夫、たいしたことないの」  高浜が真優子のコートの中を覗く。左腕のブラウスが破れところどころ血が固まっている。 「倒れた時、掠っただけだから」 「治療してもらおう」 「いいの、平気」  真優子は病室のレイのほうが気になるようだった。 「飛び降りるって……いったい、何があった?」 「……あなたのことを……」 「俺のこと?」 「そうよ、あなたのことを話してたの。……あの子……レイは……」  真優子はコートを強く握り締めた。 「あなたのことを……」 「……俺が? どうかしたのか?」  真優子は少し笑ってしまう。どうしてこの二人はこんなにも似ているのだろう。互いに魅かれあっていることをどうして自覚できないのだろう。 「真優子さん」 「……いいの。とにかく、あの子をちゃんと見ていないと……取り返しのつかないことになりそうで……でも、私、どうしていいかわからなくて。……ごめんなさい」 「それはいい。君こそ、休んだほうが……」  その時だった。病室から何か倒れたような音がした。金属が倒れたような派手な音に二人は驚いて病室の扉を引いた。 「レイ!」  レイは窓を開けちょうど上半身を表に出そうとしているところだった。高浜は自分の腕のコートを放り投げ走り出した。 「レイ!」  制止の声にも耳を貸さずレイがふんわりと頭を外に投げ出そうとしたところを高浜が腰から抱きとめて引き寄せる。軽い身体はあっという間に病室の床へと転がる。腕に刺さっていた点滴の針が拍子で抜け血が点々と散った。真優子は震えながら両手を口に当ててその様を見ていた。高浜は起き上がるとレイの肩を掴んだ。 「レイ!」 「…………」  レイはぼんやりと天井を見上げていた。虚ろな目が突然視界に入ってきた高浜を見て焦点を合わせる。呼吸が詰まったようにレイは咳き込む。這いつくばって高浜から逃れようとする。高浜はレイの手首を掴んで上半身を起こさせると胸に抱き込んだ。レイが弱い力で首を振り声にならない呻きを漏らした。 「…………っ、…………っ」 「レイ、落ち着け、大丈夫だ、何もしない。俺はおまえに何もしない!」 「…………っ」  暴れていた身体の力がふっと抜けて首ががくんと傾いた。頬に手を当てるとレイは気を失っていた。 「……レイ」 「……高浜さん……」 「……医師を呼んでくれませんか」 「……ええ」  真優子はがたがたと震えながらそれでも何とか部屋を出て行った。それを見届けると高浜はレイを抱き上げベッドへと運んだ。腕から流れる血を止めるためにハンカチを取り出すとその部分に結んだ。うっすらと汗ばんだレイの額を手のひらで拭い髪を払うと毛布を腰まで掛ける。ため息をつき高浜はベッドの端に座ってレイの青ざめた顔を見た。何がこの子をそんなに追い詰めている? 亜由美の復讐だというのなら、いくらでも受ける覚悟はある。昨夜は真優子とそのことについて話をしていた。最愛の姉を亡くした気持ちは、最愛の弟を失った自分にも少しはわかるつもりだった。できることなら何でもしてやりたい。亜由美への償いはできなくとも、弟のレイにできることがあるならいくらでもしたい。亜由美への気持ちが今でもわからない罪を背負う覚悟はできたつもりだった。レイの想いは、絶望はそんなにも根深いものなのか。こんな細い身体で強い復讐心だけを頼りに生きてきたのか。高浜を殺したいほど憎いのか。それならいっそのこと……。そう思っていた。高浜自身生きる理由を失ってしまった。瑞樹を探して幸せにすることができなかった。亜由美を死に至ら締めるほど苦しめた。その時から高浜の時間も止まったのだ。なぜここまで生きてきたのか。意味もなく。薬で自分をごまかしながら。だからレイがもし高浜の生命を奪うことで満足するのならそれでもいいとさえ思った。ましてやこんな姿を見せられて。高浜は胸が痛んだ。初めてレイを見た時からなぜこんなに投げやりなのだろうと、なぜこんなに無表情なのかと不思議に思っていた。それでもこんなふうに死を選ぶような子には見えなかったのに。高浜に復讐したいはずではなかったのか。何がそんなに彼を絶望させたのか。高浜にはわからなかった。 「高浜さん」  医師とともに真優子が病室に入ってくる。医師がレイを診ている間、高浜はレイを見つめたまま動けなくなっている真優子の華奢な肩に手を置いた。医師が後からやってきた看護士に残った点滴を片付けるよう指示すると二人の方を見た。 「……精神的な問題だと思います。しばらく入院したほうがいいのですが……」  医師は言葉を濁した。 「……自殺する可能性がある人間は置いておけない、ということですね。病院を変えろと」  高浜の率直な質問に医師は頷いた。 「こちらでは精神的なケアは行っておりませんし……」 「……わかりました。考えます。ありがとうございます」  高浜は医師に早いうちに移転先なり何なりを決めると伝えた。医師が出て行った後、真優子に声を掛ける。 「……君は店があるだろう。俺が見ているから。それか店は誰かに任せて、少し休んだほうがいい」 「……ごめんなさい……」 「真優子さん」 「……私一人じゃ……どうにもならなかったと思う……ありがとう」 「……俺は君に何度も助けられてる。……遠慮はしないでくれ」 「……ありがとう」  真優子はレイの寝顔を見つめた。そして思い切ったように高浜に頭を下げた。 「……どうかレイを……お願いします」 「真優子さん?」 「……この子を助けられるのは……あなたしかいないの」  真優子はそう言うと病室を後にした。真意がわからず高浜はドアのほうを見つめていたが、とにかくレイの今後を考えなければと思考を切り替えた。

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