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第7話
高浜の視線に負けたのか看護士は医師と相談してくると言い病室を後にした。血が止まっているのを確認すると真優子が丁寧に畳んだのだろう自分の服に着替えだす。レイに構わず上衣を脱ぐとシャツを羽織ろうとする。レイは腹部に引き攣れた傷を見て目を見開いた。高浜は気付かずにボタンを嵌めていき、それはすぐに隠されたがレイはそのまま動けずにいた。
「……高浜さん」
医師と看護士が入ってきた。外された点滴を見て医師がため息をつく。
「高浜さん、まだ起き上がってはダメですよ」
「大丈夫です。ご迷惑をお掛けして、申し訳ございません」
「……ご自宅では、お一人なんですよね」
医師はそれが心配なようだった。高浜が以前同じようなことをしているのを知っているのだろう。
「……すみません」
「この方は?」
三人が一斉にレイを見た。レイは思わず俯いた。
「……この子は、関係ありません」
その言葉に胸が少し痛む。レイは目を逸らしたままぼんやりと続きを聞いていた。
「ご家族の方は」
「…………」
「どなたか、少しでも一緒にいてくださるといいのですが……」
「もう、大丈夫です。本当に、申し訳ございませんでした」
高浜の冷静で会話を切り上げてしまう口調に医師は仕方なく退院を許した。医師達が去った後、高浜は何とか着替えを済ませ立ち上がった。しばらくベッドに両手を突いたまま目を強く閉じていたがレイはそれをただ見つめるだけだった。
「ありがとう。真優子さんにもよろしく言ってくれ」
レイはしばらく無言でいたがそのまま部屋を出て行った。華奢なその後ろ姿を見つめ高浜は目を閉じた。それからゆっくりと一階の受付まで何とか降りる。するとそこにレイの姿があった。
「……レイ」
「会計は済ませました。タクシーも呼んであります。……どうぞ」
レイはぎこちなく高浜の片腕を両手で掴んで玄関へと向かう。
「レイ」
「……何も言わないでください」
どうしてこんなことをしているのか、一番わからないのは自分だ。何を問われても今は精一杯で答えられそうにない。高浜も口で言っているほど大丈夫ではないようだ。気を遣いながらもレイに身体を少し任せてきた。レイに負担にならない程度に。車に乗り込んで高浜のマンションの場所を告げる。窓越しの太陽は眩しくてレイは目を細めながら絡めた高浜の腕の温かさを感じていた。
「……ありがとう」
高浜をベッドに座らせるとレイはふっと自分の意識も遠くなりそうで隣に座り込んだ。
「……大丈夫か」
「……平気です」
「その割には、顔が青い」
真優子にも同じことを言われた。眠れなかったからだろうか。レイは額にうっすら浮かんだ汗を拭う。
「……言いたいことがあるなら言ってくれ。……今なら、かなりの打撃を与えられるぞ」
レイは床を見つめながら浅く息を吐く。言いたいこと。頭の中がうまく纏まらず黙っていると高浜が言った。
「……悪い。横になってもいいか?」
レイが頷いて立った。布団を持ち上げコートを脱ぐと高浜は気だるげにやっとのことでベッドに横になる。そのまま高浜はレイを見上げ少し笑った。
「一緒に寝るか?」
「嫌です」
「……変わらないな」
苦笑しながらもその態度に安心したかのように高浜は天井に視線を移した。レイはまたベッドの端に腰を下ろした。すぐに帰る気にもなれず、だからといって何をしていいかもわからず。ただ高浜のそばにいたい気がした。レイは俯いたまま目を瞑った。
「……似ていると、言われるか?」
「…………?」
「……亜由美に」
レイは両手を握り締めた。奥歯に力がこもる。
「……初めて君を見た時、亜由美に似ていると……そう思った。そうか……亜由美の弟なら、似ているのは当然かと……俺は、ずっと考えていた……彼女に刺された時、彼女が言った不可解な言葉をずっと……」
意識がまだはっきりとしていないのだろうか。独り言のようでレイにはよく理解しかねた。
「あなたは私を通して、瑞樹さんを見てる、と……俺は亜由美を愛していると思っていた。けれど……亜由美はそう言った。俺には意味がわからなかった。亜由美を愛したのは、瑞樹に似ていたからなのか……愛だと思っていたこの感情は、憧憬だったのかと……」
レイは混乱して、口を挟んだ。
「……瑞樹さんて、誰?」
「……俺の弟だよ」
レイは目を見開いて高浜を見た。高浜は遠い目で続ける。
「ずっと、会ってない。小さい時に別れたんだ」
「別れた?」
「……両親が離婚したんだ。俺が十七で、瑞樹が五つの時に。……俺は父親に、瑞樹は母親に引き取られることになった。……瑞樹は、泣いて……泣いて……俺は一晩中言い続けた。必ず……いつか必ず迎えに行くと……」
レイは高浜の言葉を待った。
「甘かった。彼を迎えに行くのに、十年かかった。ヤバイ仕事もしたし、何でもした。瑞樹の泣き顔が、忘れられなかった。だから、彼をこの手で幸せにしてやりたかった」
「……あなたも……大変だったですね……」
「瑞樹に比べれば、マシだと思ってる。母親は身体が弱かったからな、その上、親類とは縁が切れてたから。俺は毎日、瑞樹のことを考えてた。親の勝手で、あんな幼いのに……」
「……彼は、見つからなかった……?」
高浜は深く息を吐いた。
「ああ……探して探して……探偵まで頼んで……でも、どうしても、見つからなかった。教えられていた住所で、亡くなった母親と、三週間も一緒に暮らしていたらしい。……想像を絶するよな……。その後のことは、誰にもわからなかった……」
高浜が不意にレイを見た。今度はレイは視線を外さなかった。高浜の気持ちを受け止めてやりたい気がした。それが同情でも。高浜も今はそれを望んでいるのだろうと。
「……大きくなったら……そんな感情がいつか亜由美に向いていたかと思うと……。今となってはわからないな。亜由美が正しかったのかもしれないし、そうでなかったかもしれないし」
高浜の手がレイの頬に触れる。温かい。こんな弱さを見せる高浜にレイはどうしていいかわからなかった。彼が求めてくることにすべて応えてしまいそうだった。
「……少しでいいから……手を……」
肩から腕へ、そして二の腕にかかった指にレイは戸惑いながらも自分の指を絡める。高浜が目を閉じる。ほんの少し声が震えた。
「……すまないことをした……亜由美にも……君にも……」
レイは何も言わずただ指に力を込めた。今は何も言わないでいよう。こんなにも弱っている人間を痛めつけるようなことはしないでいよう。その辛さを自分はいくらかでも知っていると思うから。
しばらくすると高浜の呼吸が緩やかに一定のリズムになった。眠ったのだろうか。レイは落ち着いたかのように見える高浜の疲れた顔をいつまでも見下ろしていた。
「うん……もう少しだけ……うん」
レイは真優子に一日だけ高浜のそばにいることを決めたと連絡した。真優子は安心したように声を和らげる。
「よかった、あなたがいてくれれば、安心できる」
「真優子さん……僕……」
「何?」
レイは隣室で眠っている高浜を気遣って小さな声で言った。
「……ごめんなさい……あの時……どうかしてた……」
「……いいのよ。許せない気持ちは、少しだけど、わかるから……でも、二人のことは二人にしかわからないの。それはわかるわね? レイ」
大人の女性なのだなとレイは改めて真優子のことを思った。だから若くして店を持ち切り盛りできているのだろう。人の気持ちを思いやること。それが真優子にはすぐにできる。自分の気持ちを差し置いても。レイは自分が恥ずかしくて更に声を低めた。
「……はい……」
「お店のことは気にしなくていいから。あなたも調子が悪そうだし」
「……はい……」
真優子は優しい声でレイを気遣うと通話を切った。何かあればすぐ連絡するようにとも。携帯を片手にレイはソファに沈み込もうとした。その時だった。
寝室から物音が聞こえた。何かが落ちる音だった。慌ててレイは立ち上がり飛び込むと高浜が半身を起こして頭を抱え込んでいた。落ちているのはサイドボードに置いてあった時計だった。
「……高浜さん」
「……薬を……」
レイは慌てた。そんな対応は医師に聞いていない。呆然としている間に高浜はベッドを降りようとしている。
「高浜さん、待って……!」
「薬を持ってきてくれ!」
「ダメ……!」
自分を突き飛ばそうとする高浜をレイは思わず力を込めて両手で押していた。その両手を掴まれて二人はベッドに倒れ込む。高浜が起き上がり素早くレイに圧し掛かった。
「……高は……」
唇を塞がれてレイは目を見張る。あの時と同じだ。全力でレイを捻じ伏せようとしたあの時と。けれど今度の高浜は正気を失っているようで、とてもレイが止められるような感じではなかった。それが恐ろしくてレイは何度も身体を捻って高浜の身体の下から逃れようとした。だが高浜の力には敵わない。深くなっていく口付けにレイは眩暈がした。落下するような不気味な感覚に力が抜けていく。
「助けてくれ……亜由美……!」
急激に意識が浮上してレイは自身でも信じられないような力で高浜を引き剥がした。立ち上がり高浜の頬を打った。思い切り力を込めて。
高浜は少し正気に戻ったのかレイを見て怯んだ。
「……あなたは……」
レイは唇を噛み締めた。そういうことか。だから。
「……そうやって、縋ったの……! 何度も……!」
「……レイ」
「あなたなんか……」
レイは叫んだ。
「……死んでしまえばよかったんだ!」
もう高浜の表情など見ずにレイは部屋を走り出た。その後はどこをどうやって歩いて真優子の部屋まで戻ってきたのかわからない。ただ迎え入れてくれた真優子を見て思わずレイは彼女を抱き締めていた。驚いたように自分の名を呼ぶ真優子を半ば強引に寝室へと連れていき身体を重ねた。最初のうち真優子は戸惑ったようだったがすぐにレイのするがままに任せた。何もかもがまるで靄のかかった向こう側で起きていることのように、レイは世界から自分が取り残されていることを感じていた。
「……ん……」
目が覚めると腕の中に真優子がいた。優しい横顔がすぐそばにある。レイはその眠り顔を見つめながら昨夜のことを思い出そうとしたが何だか意識がはっきりしなかった。病院を高浜と二人で出てきて。そうだ。あの一言だ。
──助けてくれ……亜由美……!
すべてのたががそこで外れたような気がする。レイは思わず目を閉じた。自分が真優子にしたことは高浜がしたことと同じだと。どうしても耐え切れなくなって自分を愛してくれる人に甘えてしまった。また自己嫌悪に陥る。決して高浜のような人間になるまいと思いながら自分のしていることは。
「……レイ?」
「……真優子さん……」
真優子が目を覚ましてレイの顔を見た途端困ったように笑った。
「……謝らないでね。謝られたら、私のプライドが傷つくわ」
「……真優子さん」
「……私は、私の意思であなたに抱かれたの。あなたは関係ないわ」
「……あるよ」
「ない」
真優子がレイの肩に頬を寄せる。艶やかな髪からはいつものコロンのよい香りがした。
「……片思いでもいいの。私、あなたとこうなりたかった」
「真優子さん」
「……もう、何も言わないで」
真優子が背伸びして唇を合わせてきた。束縛する気はないと意思表示しているかのように真優子の両手はレイの首に絡んではこなかった。ただ肩に添えるように優しく置かれてレイは更に泣きたい気分になった。抱き締められない情けない自分がどうしようもなく嫌だった。
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