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僕は幸せなのか不幸せなのか。
深く考えなくても、幸せなのだと断言はできる。
僕が二十五の時に生まれた息子はもう三歳になって、日々できることが増えてゆくのが微笑ましい時期。
あまり子どもらしくふっくらしていないけど、歳より大人に見えて、親バカだけどとてもかわいらしい。
片親なので赤ちゃんのうちは親に助けてもらい、今は保育園にお願いしている。
時間がなくて自分はあまり愛情を注げていないけれど、優しい子に育ってくれている。
幸せなはず、なのだけれど。
今の僕には、余裕がないのだろう。
広告代理店に就職して一年で子どもができて、子どもを優先するために会社を辞めた。
実家で親や弟妹に迷惑をかけたくなくて、親のツテで安くマンションを譲り受け、息子と二人の生活を始めた。
定期的にアルバイトをしながら、不定期なデザイン業務を自宅で受注してる。
目一杯仕事を入れているのは、仕事がなくなることが不安だから。
息子を育てられなくなることがこわかった。
経験不足で頼れる人も少なく、勉強しながらの実務には不安しかない。
拘束時間がないからと、家事と育児以外の時間をほとんど仕事にあてた。
育児も楽しいばかりじゃない。
まだ一人でできることなどほとんどないから、なんでも手助けをしないといけない。
他にかまってあげる人がいないから、彼が家にいて起きている時間帯は家事と仕事に集中することができない。
時間が空いても自分の息抜きをするより、息子のために時間を使う。
息子を抱きしめて癒された気になっても、実際疲れは取れないし、頭の中はせわしなく先のことを考えていて落ち着かない。
幸せだと言えるけれど、幸せだと、思えない。
どうしようもない無茶をして余裕のない生活の中、わずかに気を抜ける時間があった。
週四日、専門学校の講師のバイト。
グラフィックデザイン科の、デザイン画の授業。
仕事ではあるのだけれど納期がないから気が楽で、一定の時間、息子と本業のことを忘れて過ごした。
生徒たちに社会に通用する能力を身につけさせるという課題があるが、その生徒たちとの会話が今の僕には最高の息抜きだった。
家では一人黙々と仕事をするか、一次反抗期まっさかりの息子と向き合うか。
仕事の受注はほぼネット経由だったので、他人と関われる時間は貴重だった。
入学したばかりの一年生の授業。
イラストボードに動物を、一つはリアルに、一つは簡略化させて描くよう課題を出した。
こころざしを持って入学してきた子たちばかりだから、みんなそれなりの技術がある。
その中で一人、とても目を引く絵を描く子がいた。
周囲が簡略化に苦戦する中で、簡略化させたイラストが非の打ち所がないほど洗練されている。
本当に必要な線だけで陰影を表現した、想像の補完でリアルに見える百獣の王。
「西依 先生、できました」
教室内を見回り席の横を通り過ぎようとした僕に、千坂くんは無表情に顔を向け、静かに評価を問うてくる。
「完璧だね。僕このイラスト、お金出して買ってもいいくらいだよ」
僕よりだいぶ体格が良くていかつい彼は、席に着いて見上げる位置からちょっと照れたように小さく笑う。
「いくらで買ってもらえますか」
僕は一瞬、真剣にこのイラストの価値を計算しようとした。
鉛筆画だからちゃんと仕上げてもらったら。
名刺にはもったいない、スタイリッシュな会社のリーフレットに使えそう。
すぐにこの絵は学生が練習で描いたものなのだと思い直し、僕は笑い流した。
「冗談だよ。すごく上手に描けてるから、大事にして」
次の課題にレタリングで自分の名前を描くように指示すると、千坂くんが軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
そして普段の無表情に戻り、デザインケースにイラストを片付けた。
僕は新しいイラストボードを取りに教卓へ向かう。
流したけれど、実際本気で、彼の絵が欲しかった。
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