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20 慰謝

 階下から言い争う声が聞こえた。  仲の悪い両親だが、声を荒げることは今までなかった。  無視をしていたが母親に呼ばれて、大我はリビングへと降りていった。  ソファに座る父親、苛立たしげに離れた場所に立つ母親。  父親の目の前に置かれた紙切れ。  大我は父親の前にゆっくり進み、それを手に取る。  上方に、明確な結果の一文。  父親が実の父親だったというのに、こみ上げた思いは嬉しさではなかった。  恨みも悲しみも浮かばず、理由のわからない涙があふれた。  紙切れをテーブルに置くと、母親が再び声を荒げる。  口論は途中で、一部わからなかったが、恐らく。  二人が結婚してから、母親が浮気をした。  生まれた子どもが誰の子かわからない。  父親は、大我が幼いころから自分と違って凛々しい顔をしていて、自分と違って朗らかで、自分と違って勉強ができないから、自分の子ではないと確信した。  母親は二十年間無実の罪に耐えてきたを代償を払ってもらうと言って、その場で家から出ていった。  父親は、本当に無実なら子どもを無視して出ていくかと、自分でも誰の子かわかっておらず、後ろめたさで二十年を勝手に耐えたのだろうと言った。  そして、大我に出ていくように言った。  大我は一言も、言葉が出なかった。  目を覚ます。  慣れない場所のせいか精神状態が悪いせいか、なかなか寝つけず目覚めも早かった。  気分が悪いが、隣の部屋に南方がいると思うと少し不安が軽減する。  優しい人であるし教師でもあるから、助けを求めればどうにかしてくれるという安心感がある。  まだ五時にもなっていない。  南方は六時に起きて七時には出勤すると言っていた。  スマートフォンだけを持って南方の家に来て部屋を借りることに決め、その日のうちに明け渡してもらった。  今日は夕方に家に行き荷物をまとめ、南方の帰宅時に迎えに来てもらう。  布団に横になったままスマートフォンでゲームを始めたが、気が乗らずすぐにやめた。  気分が悪いので目を閉じたが、眠くはないし楽になるわけでもない。  なにが悪かったのだろう。  自分が父親に似ていればよかったのか。  自分が陰湿ならよかったのか。  自分がもっと真面目に勉強をすればよかったのか。  そもそも、母親が浮気などしなければ。  父親が、浮気に気づかなければ。  急にひどく、悲しくなった。  散々泣いたのに、また涙があふれてくる。  自分はもう、小さな子どもではない。  なにがあっても自分で気持ちを立て直さなければならない、それはわかっているのに。  しばらく涙をこらえていると、(ふすま)をノックする音と、南方の声が聞こえた。  立ち入ることを許可すると南方は静かに部屋に入って明かりをつけ、布団のかたわら、背後に座った。 「大丈夫?」  早朝は静寂が過ぎて、声を殺していたつもりが気づかれてしまった。  いつもなら優しくされると嬉しいのに、今は申し訳なさが先行する。 「もし父親が、俺をちゃんと自分の子どもだと、思ってたらって、考えたんだけど」  喉の奥が苦しくて、口もとをおさえる。 「今までとあんまり、変わんないんじゃないかって、思って。母親もさ。もともと、優しくない人間なんだよ」  もう全てが遅いのに。  改善策を考えても、改善された過去が見えない。 「子どもとか、いらないやつらだったんだよね、きっと」  唯一浮かんだ良策は、自分が生まれなければ良かったのだということ。 「なに頑張っても、意味ないし。俺が生まれた、意味もないし」  愛されようと努力しても、血の繋がりがあろうがなかろうが、意味がなかったと、ようやく気づいた。  自分が生まれなければ、父親も母親も、自分も、無意味に苦しむことはなかった。  それしか改善策がないなんて、あんまりだ。  声を殺しきれずに涙をこらえると、背後から声がかかる。 「白石は、ご両親を喜ばせるために生まれたんじゃ、ないんだろうね」  優しい声音。 「でも、生まれた意味なんて、考えなくてもいいよ。白石は完璧被害者で、傷だらけみたいだから、今はゆっくり休むことだけ考えればいいよ」  ゆっくり休めば傷が癒える、そう思わせてくれる音。  親に対して諦めたと言いながら、全く諦めていなかった。  親との繋がりは、意味のないもの。  切り捨てて、傷が癒えれば、どうなるだろう。 「一週間はなにも考えないで過ごそうか。それでも無理なら延長してもいい。僕もなにも聞かない。話したいことがあったら、それは聞くよ。その後で、この先どうするか、考えようか」  振り向いて、南方をあおぐ。  声に見合った、優しい面持ち。 「こんな時だけど、僕は僕のために白石がここに来てくれて、良かったなって、思ったよ」  髪を撫でる、優しい手。 「いつもならこういうときに僕は、教師だったら、年長者だったらこう言うべきって、一般的な考えで白石に言葉をかけてたと思うんだ。でも、白石が本当につらそうだから、一生懸命、白石が楽になれそうな言葉を探した」  南方が少し、申し訳なさそうな表情になる。 「周囲の人たちのためにって頑張ってたつもりだったけど、やっぱり僕は、浅はかだったみたいだね。さっそく気づかせてくれて、ありがとう」  自分の問題で南方に負担をかけているはずなのに、感謝の言葉を述べてくる。  ここで傷を癒してもいいのだと、思わせてくれる。 「いつもさ、俺、みなちゃんに説教されると、イラッときてたんだよね」  好きだけど、反発心が湧いた。  それでも好きだから、自分は本当に南方が好きなのだと思う。 「あぁ、そうだったんだ。ごめんね」  静かに、謝る声。 「でも今日は、ちょっと楽になった」  ゆっくり起き上がり、南方に向き合う。 「ねぇついでに、ギュってして欲しいんだけど」  南方が優しいから、調子に乗って申し出る。  少しは楽になったが、まだまだ苦しい。  南方はやや困った表情になり、動かない。 「抱きしめて欲しいって言ってる。そうしたら、泣き止むから」  朦朧として、自分から動く気力がない。  でも、抱きしめられたい。  南方は困った顔のまま、わずかに笑む。 「わかったけどあのね、好きだからじゃなくて、白石に申し訳なかったし、元気になって欲しいから、するんだからね」 「いいよもう、それで」  南方は座ったまま近づいて、斜め前方から抱き寄せてくれた。  南方の胸に体を預け、目を閉じる。  背中に回された腕で、消えてなくなってしまいそうな自分が南方につなぎとめられたような感覚。  自分を苦しめるたくさんのなにかが、浄化されていくような感覚。 「眠い」  目を閉じていると、気が遠くなる。 「ゆっくり寝ていればいいよ。ひとりでいるのがつらいようなら、航一朗をここによこすけど」 「いいよ、恥ずかしいから。夕方まで、適当にぼーっとしてるから」  涙は宣言通り、にわかに止まる。  そして大我は、そのまますぐに、眠りに落ちた。

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