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32 心事

 夜七時、南方は普段と変わらぬ時間に帰宅する。  大我がこの家に来てから一カ月、自宅に明かりがついていないことが物足りなく感じるようになった。  準備された夕飯をレンジにかけようとしたところで、インターホンが鳴る。  玄関に顔を出すと、隣家の老婦人が笑顔で回覧板を差し出した。 「さっきも来たんだけど、今日は大我くんいないのね」  瀬峰と無事連絡を取ることができた大我は、待ち合わせ場所に指定された園姫に不安を感じながらも承諾し、今まさに会っている頃だろう。  泉の時のように問題なく済めばよいと願わずにはおれない。 「ええ、今日はちょっと出かけてました。お茶会で世話になってましたか?」  回覧板を受け取りながらたずねる。  先日までたびたび航一朗と勘違いされていたが、大我はいっときでだいぶ近所に馴染んでいるようだ。  老婦人は世話になっているのはこちらだと首を横に降る。 「圭紀くんとこの子じゃなかったらああいう子はなかなか誘えないけど、誘ってよかったわ。大人しい子かと思ったら人なつこいし、とても気がきくのねぇ」  大我が受け入れられていることに、南方は思わず顔をほころばせた。  和真は終始邪険に扱ったが、自分が思うように大我はやはり人当たりのよい人間なのだ。  ただ自分のもとにいなければ和真が言ったように、印象が悪く取られる可能性も確かにあるようだ。 「就職の相談にも乗ってもらったみたいで。白石、とても興味を持って、おととい介護施設を見学してきたんですよ」  大我は面白かったと言っていたが、和真の知人であるから波風が立たなかったとも考えられる。  すべてがうまくいくわけでは、ないのかも知れない。 「あら、お仕事始まったらさみしくなるわね。平日お休みだったら来てくれるかしら」  ひとしきり大我を褒められていると、玄関のガラス戸に表から光が差し込む。  この時間に駐車スペースに車を停めるのは、おそらく和真だろう。  老婦人が去ると、入れ替わりで和真が玄関をくぐって顔を見せた。  先日大我と会った際と同様、雄々しい顔立ちを不機嫌にゆがめる。 「白石は?」 「出かけているよ。おとといはありがとうね」  彼は今までこの家に笑顔で訪れていたように思う。  なぜこれほど大我と馬が合わないのか疑問でならない。  和真を和室に通すと、夕飯は食べてきたと言うのでコーヒーをいれ、自分は遠慮なく食事を並べる。  テレビを眺めていた和真はコーヒーに口をつけると、頬杖をついてそっけなく話しだした。 「白石な、利用者にも職員にも、どういうわけか受けがよかったらしい」  先ほど大我を褒められたばかりでまたも大我の賛辞、心の底から喜ばしい。 「和真の知り合いだったから、よくしてもらえたのかな?」 「さぁ。俺は仕事があったから見てなかったが、どっちからも相当気がきくヤツだったと聞いた。それでホームの主任が、あいつを使いたいと言ってきた」  真面目な人間ではつぶれてしまうことが多い業界、多少不真面目に見えてやるべきことのできる人間なら、利用者と他の職員の双方によい働きかけをしてくれるのではないかと期待しているという。  長所と短所をひとくくりで評価されるなどなかなかないこと、指導を頼まれた身からすると非常に喜ばしい。  やる気があるならもう一度ボランティアをしてみるか面接受けるか、連絡をよこすよう伝える和真は、不機嫌な顔を次第に沈んだ表情に変え、ひとつため息をついた。 「どうしたの?」 「あのな。……また聞きのまた聞きだが、白石が、惚れた人間と一緒に住んでいると聞いた」  唐突な話の転換に、南方は戸惑った。  和真が自分の答えを待っている、だがどのような答えを期待しているのか予測できない。  和真は頭の固い人間だ。  知らなかったと驚きを示すことを待ち、同性を好む大我に一層の嫌悪を示すのか。  知っていて受け入れようとしていると言えば、和真は自分にも嫌悪をいだくのか。  なにも言えずにいると、和真が続けて口を開く。 「俺も今あせっていて、なにを言えばいいのかわかっていないが、あせっているからとりあえず言う」  和真があせるとは、どの点に関することなのか。  話が見えず黙り込む南方に、沈んだ表情のままの和真は言った。 「俺がいまだに結婚どころか誰ともつるんでいないのはな、圭紀との付き合いに満足していたからだ」  その言葉は、重かった。  和真の言う付き合いとは、恋愛という形ではない。  だが和真との付き合いは、高校以来二十年にもなる。  重ねた年月が、深い想いをうかがわせる。  だが今まで察することができなかったから、自分は見当違いをしているのだと思えてならなかった。  和真は顔色を変えない。 「だからな、昨日今日出てきた若造が圭紀のすぐそばにいるってことが、本気で我慢ならない。白石が圭紀に惚れていると、知っててここに置いているのか?」  大我の嫉妬は、憶測ではなかった。  言葉に出さない和真のいきどおりを察していたのだ。 「知ってる」  やっと静かに言葉を返すと、和真は怒りとも悲しみともつかない表情で南方を見据えた。  大我に対する気持ちは完全には傾いていないが、それは言わなかった。  大我に不義は働けないし、和真に期待を持たせることも、してはならない。  想いが通じ合っていると思われても、構わない。 「圭紀の問題に俺がどうこう言うもんじゃないが、どうしても、納得いかない。だがあいつはやめろ、俺にしろなんて、言いたいわけでもない」  気持ちを明かしながら自分にはなにも要求しない。  自分だけを好きになれと要求してきた大我とは対比的だと、ふと思う。  二人が相容れないのは、この意識の格差だろうか。  情を持つことを(こば)んでいた自分が、和真の想いに気づかなかったのは当然だった気がする。  強引に踏み込まれなければ、かたくなな自分はきっと、いつまでも変わらず(あやま)ったしがらみにとらわれていただろう。 「俺を納得させて欲しい」  常に自信に満ちた言動をする和真が、心なしか不安げに願い求める。 「白石をそばに置くことに納得できる理由が欲しい。もしくは、白石が俺に納得のいく態度を見せるか。今日はいい。今日は、なにを聞いても納得できそうにない」  和真はコーヒーに手を伸ばしまたひとつため息をつくと、口にして、小さく苦笑した。 「なにも言わずに見極めればよかったんだけどな、ダメだな。白石は好きにしてるのに自分は永遠に黙ってるなんて、腹が立ってしかたがない」  大我は募った想いを即自分に告げたが、きっと和真は長い間、一切それを表に出さなかった。 「気づかなくて、ごめん」 「気づかれないようにしてたんだ、気づかれたら困る」  コーヒーを飲み干すと、和真は普段と変わらぬ様子で挨拶を交わして帰っていった。  自分は和真に納得のいく回答を提示することができるだろうか。  和真と付き合ってきた時間を思い返す。  性格も趣味も異なるが、思考の共通点が多く会話が弾むからともにいた。  頭の固い者同士言い合いをしながらも、家庭を持つ者が増えたこともあって最近は二人で会う機会が多かった。  二十年もの間付き合いの続いた和真と、親しくしてきた時間はほんのわずか、一時期は接することができずにいた大我。  誠実に、どちらか一方に想いをしぼるならば。  明らかに、大我だ。  迷いもなく浮かんだこの想念。  二十年をくつがえすことのできる理由は、わずかに思いをめぐらせただけでは自分にもわからない。  和真にその回答ができたとき、おそらく自分は変わっている。  そのときには、迷いなく大我を想うことができているのではないか。  そう思える自分に、安らかな喜びを感じる。  想う心を戒める無意味で悲しい自分は、いつかきっと、消えてゆく。  和真が自分に想いを強いることがないから、自分も和真に対して遠慮はいらないのだと思わせる。  和真の深い想いを容受できないことに心苦しさはあるが、自分もいたずらに傾動するわけにはいかなかった。

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