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引っ越しの準備は一日で終わった。自分の部屋を引き払うのは来週だったが、服はもうほとんどキシの部屋に置いていたから、夏に着る物だけ箱に詰めればよかった。大きな物は持っていかない。 置く場所はあるからさ、別に全部捨てる必要ないよ、と二日ほど前にキシが言って、僕は荷造りを済ませた土曜の夜に、 「キシさんは、僕が家具とか全部捨てない方が安心かな」 と聞いた。 ソファーに並んで座って、テレビに夜のニュースが映っていた。 キシは体を捻って、僕を見た。 「なんて?」 「今度、引っ越しの時に」 僕はソファーに足を引き上げて膝を抱え、キシは眉をひそめた。 「わかんなかった。もう一度言ってくれる?」 「だから、引っ越す時、僕が自分の家具とか家電とか全部捨てたら、キシさんがいやかって」 「なんで、俺が安心とかいやとかいう話になってるんだ」 テレビからコーナーが切り替わる音楽が流れた。キシはテーブルのリモコンに手を伸ばして、音量を下げた。 「たとえば洗濯機も冷蔵庫も持ってこないから、キシさんのを使う」 「おう。今と同じじゃん」 「でも今度は、僕がいる所が、ここしかなくなる」 自分の膝を掴んだ手に力が入った。 「全部手放したら、もう次にどこかに行くのが大変になる。キシさんがやっぱりやめたって思った時、すぐ出て行けないよ。そうなると」 「ちょっと、待って」 キシはテレビを消してしまい、リモコンをテーブルに置いた。 「そうなると、困らせるのも」 「待て、って」 「困らせるのも、いやだから」 キシは笑い出した。 「言うこと聞かないなー、お前」 「話、わかった?」 「俺が、全く信用ないってことはわかった」 キシは僕の頸を掴んで抱き寄せた。 「くすぐったい」 耳元に唇を寄せてくるのをはらいのけようとした手を掴まれ、押し倒される。舌が右耳をかすめて、僕は息を呑んだ。 「これから説教すんのに、そんなに喜ぶなよ」 耳に息が吹き込まれて僕は肩を竦める。キシは本格的に耳にキスし始めた。背中にしがみつきそうになるのを、両手を握って我慢した。呼吸が早くなってきた頃に、 「あ、わかったかも」 とキシは顔を上げて、眼鏡の向こうから、僕の目を覗き込んだ。 「家具、全部捨てなくてもいいって言ったからだ」 僕は息を整えようとして、口に溜まった唾液を飲み込んだ。ごくり、と大きな音がした。指で眼鏡の位置を直して、キシは僕の頭を抱えた手に力を込めた。僕の首がのけぞる。 「今まで使ってた物が全部なくなったら、アナタが寂しいかと思ったんだよ。口開けて」 少しだけ口を開けると、キシは唇を合わせ、僕の舌を探り当てて音を立てて吸いながら、僕の髪を掴んだ。僕は両手を開き、キシの背中を引き寄せる。 キシはいつも僕の髪を全く痛くないやり方で掴み、いろんな角度にぼくの頭を傾けて深いキスをするのだが、その痛くない掴み方が僕にはわからなかった。キシの髪を掴むと、 「それ痛い」 とたいてい叱られる。 しばらく続けてから、キシは唇を離した。 「上野」 何とか目を開ける。 「口に出して言えることは、全部本当になる可能性がある、そうだろ?」 キシの息は熱かった。 「俺がお前に出て行けって言う、とか」 僕が顔を背けると、キシは髪を掴んだ手を緩めて、 「なあ」 と言いながら、僕の頬に手を添え、もう一度自分の方を向かせた。 「お前が俺を捨てて出て行く、とか。他の人を好きになりました、とか」 「それはない」 「うん。でも言葉にできることは、もう既にこの世に存在する。変な言い方だけど。わかる?」 キシは大きく息を吐いて、僕の胸に頭をもたせかけた。 「だから、口に出すな」 僕はキシの頭に手を置いて、目を閉じた。こめかみのあたりから撫でていくと、襟足は整髪料をつけていなくて、柔らかい手触りだった。 そこに触れるといつも、キシの夢のことを思い出した。もうどこにも行かないようにと願いを込めて、濡れた髪の誰かをキシが抱きしめる。砂浜のような広い場所で。降り注ぐ太陽の光の中で。 「ごめん。信用してない、とかじゃないんだけど」 閉じたまぶたの裏で光を感じながら、僕は言い訳をする。キシがふふん、と笑うのが胸に響いた。 「マリッジブルー?」 「あ?何だそれ」 「違うか。まあいいや、とにかく荷物は好きにしなさい」 体を起こして、彼は笑顔で僕を見下ろした。 「でも洗濯機は二個いらない。棚とかそういう物のことなんだよ、そもそも」 「んー。わかった」 「ほんとにわかってんのかね」

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