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第2話 噂と自傷行為
初めは単なる噂なのだと、香彩 は思っていた。
紅麗には仕事や使いで行くこともある。
それに竜紅人 は司冠 という任に就いている。
司冠とは、法令を司り、契約の証人の管理等を司どる大司冠 の補佐官だ。
大司冠の仕事の中には麗国内の商法、店舗の契約管理も含まれていて、月に一度、監査と称して、提出された商法内容に契約違反がないかどうかを調べるために、直接店舗に出向く。
それが遊楼の範囲だったことから、通い詰めていると誤解されたのではないかと思っていた。
噂が本当なのだと分かったのは、紅麗の大通りの装飾品を取り扱う屋台で偶然、竜紅人を見てしまったからだ。
粗野な部分が目立つ彼にとって、装飾品とはあまり縁がないものだと香彩は思っていた。
それがどうだろう。
綺麗な花の飾りが付いた、髪結い用の綾紐を選ぶ彼の目は、真剣そのものだった。
あまりの直向 きさに、見てはいけないものを見た様な気がした。香彩は竜紅人に声を掛けることはせず、隠れて様子を伺うことにしたのだ。
竜紅人の選んだものは、神桜 の花弁をあしらった綾紐だった。
(──っ!)
綾紐を見ながら笑む竜紅人に、心の臓を鷲掴みにされた様な痛みが走る。
店主に綺麗に包んで貰ったそれを大事そうに持って、竜紅人は紅麗の大通りの人混みを、すり抜けるようにして歩いて行った。
跡なんて付けなければよかったと思う。
彼は遊楼の集まる袋小路の奥へと入り、声掛けをしている店子と話をしながら、見世の中へ入ってしまったのだから。
足元から崩れて落ちていく様なあの感覚は、一生忘れはしないだろう。
綾紐を選んでいた時に見せていたあの笑みは、これから会う者を思い浮かべて見せた笑みに、違いなかった。
(……よりにもよって、神桜だなんて)
神桜は城の中庭にある藤色に近い色をした桜で、春の出会いと別れの季節と、秋の衰退と次の世代の為の季節に、咲き誇る。
神桜は月映えに彩られて咲く際に、甘い芳香を放つのだ。故に神桜を『神彩の香桜 』と呼ぶ者もいる。
香彩の名前は、ここから付けられたのだ。
あの日以来、香彩は眠れなくなった。
眠気が襲ってきても、張り詰めた心が眠りに落ちることを拒むのだ。
彼が城からいなくなる夜は、特に酷かった。眠気すら感じず、今頃見世にいるのだろうかと考える度に、胸の奥がずきりと痛む。
やがて食べ物すら、身体が拒むようになった。
表向きには心配させないように食べてはいたが、身体が受け付けない。気付かれない様に平然とした顔を作りながらも、後で吐いた。
見るに見兼ねた友人に無理矢理連れて来られたのが、麒澄の薬屋だったのだ。
初めに比べれば、体調は良くなった。毎日飲んでいた眠り薬も、今は四日に一服で済んでいた。
それが竜紅人の遊楼通いの回数と比例しているのは、もう嗤うしかない。
「滋養の薬も入れておいた。少しは身体が楽になるはずだ。……出来れば薬は、この処方の分で終わりになるといいんだがな」
「……多分また来ると思うよ」
だろうな、とため息をつく麒澄に、香彩は再び苦く笑った。
愚かな自傷行為の様だと思う。
綺麗な翠色の髪をした友人には咎められ、いっそのこと自分の想いを伝えたらどうかと言われた。
その方が少なくとも今より健康的だと。
だが香彩は決して首を縦には振らなかった。
(伝えてどうする)
(彼には、想い人がいるというのに)
(伝えて、自分に対する態度が変わってしまったら)
それこそ耐え切れる自信がない。
悔しそうな、やりきれなさそうな表情を浮かべて歯を食い縛る友人に申し訳ないと思いながらも、香彩はそう伝えたのだ。
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