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高鳴る鼓動、縮まる距離

 閉店間際の衣料品のチェーン店で翌日の着替えを購入し、パジャマだけは片山に借りることにして、孝也は初めて片山のアパートにやって来た。築年数が浅く、官舎とは比べ物にならないくらい清潔な外観である。間取りはワンルームだが、玄関や水周りとはちゃんとドアで仕切られているし、クローゼットとベランダも付いている八畳間はかなり広々として見えた。  オーディオセットの他にはベッドとギターがあるくらいで、物が少なく整えてあるからだろう。  最近の物件であることを強調するかのように有線放送が入っていて天井のスピーカーからゆったりとジャズが流れ始めて孝也は驚いた。店舗以外にそんな設備があるなんて思いも寄らない。  きょろきょろと落ちつかなげにしている孝也を促して円形のラグに座らせると、片山は冷蔵庫からカクテルの瓶を取り出してきた。  ちびちびと口を付けながら当たり障りない話をして、帰宅時にスイッチを入れておいた風呂が沸いたと機械が喋る。驚く背を押されて先に孝也が入った。自動湯張り機能付きが初めてだったので、出てきたときに興奮していてはしゃいでいるのを見て、片山は楽しそうに笑う。  なんだか一人だけ子供のようだと恥ずかしくなり、孝也はタオルでがしがしと髪を拭く振りをして顔を隠した。  大勢で集まっていたときにも、何処か達観しているように、全体に気を配りつつも一歩引いていた姿を思い出す。片山が誰かと特に仲が良いとは、聞いた事がなかった。まさか誘ってもらえると思わなくて、寝床の心配がなくなりホイホイ付いてきてしまったけれど、本当にこれで良かったのかと不意に不安になる。  嫌がられては、いないと思う。だけど、お泊りするほどに親しくはしていなくて、あくまでも同期の同僚というただそれだけの関係だ。  官舎内に自分の部屋があるのだからと、誰かの部屋に泊まるなんてこともなかった。どんなに遅い時間帯でも、解散となれば皆自分の部屋に帰っていたから、健吾以外に同じ部屋で寝たことなどない。  健吾との関係とは全く違う。でもそれを差し引いても、自分がちょっと図々しいんじゃないかとぐるぐる思い悩んでいる間に、片山も入浴を終えてしまっていた。 「どうかした?」  入る時に見たままの場所で呆けている孝也に、片山は訝しげに自分も床に膝を突く。そっとタオルを払いのけて顔を覗き込むと、髪と同じくらい黒く艶やかな瞳が、うるりと見上げて来た。 「よしき?」  どくんと、胸が高鳴る。双方のそれが重なったことに、二人は気付かない。  片さん、と囁くように呼んだきり、孝也は何も言えなくなった。健吾に対するものとは違う、他の同僚とも異なる格別の気持ちがあるのは知っているけれど。それが何なのか判らない。尊敬してもいるし、憧れてもいる。親しくなりたいのに、それが恐れ多いような尻込みする気持ちもある。  だから……何をどう言えばいいのか解らない。  運転している間だけ掛けていた眼鏡が物珍しくて、助手席でちらちらと窺った時もそうだった。立てている髪の先が少し垂れる程度に短く整えている片山は、綺麗に日焼けした肌と相まってどうみてもスポーツ青年だ。  今日実際に現場を見てしまったように、ギターを弾くのが趣味なのも知っていたが、歌うのは初めて聴いた。その時のどきどきを胸に抱えたままなんだ、きっと。孝也はそう胸の内で言い訳しながら、精悍な横顔を盗み見ていた。  こんな風な孝也に気付けば、健吾ならば「欲情した?」と色気たっぷりに微笑みながらそのまま押し倒すだろう。簡単に予想が付く位に慣れてしまっているが、それは互いを理解しているからじゃない。ただ、行動パターンを把握できる程度には一緒に過ごしている、それだけだ。  片山は、手渡したまま使われずに孝也の足元に放置されているドライヤーを手に取ると、プラグを差してから孝也に向けてスイッチを入れた。顔を避けて熱風が髪を弄り、地肌から掬い上げるように、骨ばった指が黒髪を梳いては離す。 「風邪ひくぞ」  ごお、という音に紛れて、そんな言葉だけが耳に届いた。

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